第10章−2


「んーーふっふふふーん〜〜。ふぅ〜〜〜〜」

「…………、……」
高層ビルの最上部。ダークウィズカンパニー、社長室前。観音開きの巨大な扉の前の前に立ち、あたしは、ごくりとつばを飲み込んだ。
どうしよう。
何ていうか、扉の奥から、地を這うようなテンションの怪しい鼻歌が聞こえてくるんだけど。…
巨大企業のトップの執務室に一従業員がお邪魔するなんて、ただでさえ敷居が高い行為だというのに。陰気な響きの鼻歌は、あたしを一層不安な気分にさせる。
仕方ない、これも仕事だ。覚悟を決めてあたしは叫んだ。
「携帯扇風機部の、ですー!ご要望の物をお持ちしましたー!」

鼻歌が止まる。
「入りたまえ!」

「はい!失礼します!!……、よいしょ」
こういう立派なところに来るのは初めてだから、礼儀正しい入室方法が分からないよ。
いったん扇風機を床に置き、そろそろと扉を開けて体を半分滑り込ませてから、置いておいた箱をまた持って、部屋の中に入る。

そこは、間仕切りも柱も全て取り払われた、広い広い一続きの部屋だった。
床にはどこまでも赤い絨毯が敷き詰められ、一体どこまで続くのか、行き着く先を辿って視線を上げれば扉の反対側の壁は床から天井まで全面ガラス張りの窓だった。この階の天井、普通の2倍くらいの高さがあるから、すごい迫力。見渡す限りの巨大な窓の向こうには、もやもや明るい真昼の白い空が眩しく広がる。
あたしは思わずまばたきした。
さすが社長室、すごい部屋だ。…どうして電気をつけてないんだろう。
部屋の全てが、窓から差し込む光を背にして、逆光の中、薄暗くわだかまって沈んでいた。

中央奥にぽつりと置かれた社長のデスク。椅子に座った丸っこい人影。あれがあたしに電話してきた社長さんだろうか。
そしてその隣に――すっぽりと影に覆われて、輪郭だけが見えている。
物憂げに長い首を曲げてうずくまる。鳥に似た翼を持った…シロンさんを思わせる輪郭の、誰か。

――「何で『携帯』扇風機部なんですか?」
――「『人間の』携帯用ではないからです」

ウインドラゴンだ。
DWCにもウインドラゴンがいる。知ってはいたけど、いざ目の前にすると何だか落ち着かないものだ。
だって、想像してた以上にシロンさんそっくり。
もちろんあそこにいるのはシロンさんじゃない。黒々とした影に覆われた体も翼も、よく見ると元々シロンさんとは違ってかなり暗い色のようだ。髪型も違うし、変な服も着てる。何もかもシロンさんとは全然違う――、なのにそれでも、そのウインドラゴンはシロンさんにとてもよく似ているのだった。


「ランシーン…、―――」


あたしが漏らした呟きは、がらんとした部屋の中、意外と大きく響いたらしかった。
「んぬぅ…?」
うずくまっていた影が、あたしの声を聞いてゆっくりと首をもたげる。
社長が真っ青になって立ち上がった。
「コ、コラッ!!『ランシーン様』とお呼びしなさい!扇風機は!?持ってきたのかね!?」
「あ、はい。すみません…こちらに」
あたしは慌てて頭を下げると、ダンボールを抱え直してデスクの方へと向かった。
急ぎたいけど、何しろ部屋が広くて距離がある。箱を抱えながら走ったり歩いたりして、ようやく二人の近くまで辿り着く。
それから箱を床に下ろして、中身を出す。…開け口に貼ってある透明テープがなかなか剥がせなくて、もたもたする。

段取りの悪さに待ち切れなくなったらしい。社長が転がるように走ってきて、あたしを手伝ってくれた。
きゅうっと腕を掴まれる。
「次からは…!!すぐにお渡しできるように、箱から出して持ってくるようにね…っ!!」
「お、おぉう…。すみません、気をつけます…」
これがダークウィズカンパニーの社長さんか。
意外と小柄なおじさんだ。
その丸っこい顔にいっぱい汗が浮かんでいるのに気付いて、あたしは気の毒になった。

怖かったんだろうなあ。
あたしはちょっとだけ首を動かし、一人悠然と座ったままの黒いウインドラゴン…ランシーンさんをちらりと見やった。
慌てるあたしたちに特に興味もないようで、逆光の中に沈んだまま、憂鬱そうに宙空を眺めている。
さっきの鼻歌は、多分この人。
どう見ても社長より偉そう。

ただっぴろい社長室だというのに、ランシーンさんは大きな体をわざわざぴたりと社長のデスクの横に寄せている。
もしかしたらそれだけ社長のことが好きなのかもしれないが、その割には陰気で嫌なオーラがだだ漏れなので、きっとこれは、嫌がらせのつもりで社長にプレッシャーを与えていたんだろうと思う。
これがパワハラか。
初めて見る。


包装を開け終わり、社長がランシーンさんの足元にダッシュしていって扇風機を差し出した。
「ランシーン様!お待たせしました、新しい扇風機です!」
「………」
ランシーンさんはそれに頷くことさえしなかった。
無言のまま当然のように腕を伸ばして、社長から扇風機を取り上げる。
大きな手の先が、ぽちりと扇風機のスイッチを押した。

ぷるるるるるる…。

扇風機の風に吹かれて、ランシーンさんの首の辺りの羽毛がぺしゃんとへこんだ。
ぷるるるるるる…。
ゆっくりとした動作で、扇風機を顔近くまで持ち上げる。
風を顔に当てながら、ちょっと左を向く。
それから、ちょっと右を向く。
目を細める。
「……………」
ランシーンさんはその体勢を保ったまま、しばらく何も言わなかった。
「……………」
ランシーンさんが何も言わないので、社長もそのまま沈黙を保っている。
初めてこの場に居合わせたあたしだけが、途方にくれて首をかしげる。
「…………?」

えーと。
つまり、これは。一体何してるんだろう?

そうっと社長の様子を伺うと、社長は緊張の塊みたいな顔になって、呼吸を止めてランシーンさんの様子を見守っていた。
意味が分かりません。あたしもつられて緊張してきた。
「……………」
ぷるるるるるる…。
ランシーンさんはまだ黙っている。そしてさっきから全然動かない。ちょっと右を向いた角度が気に入ったようだ。
頬の辺りの羽毛がそよそよ揺れているのが見える。
「……………」
「……………」
何してるんだろう。
楽しいのかな、あれ。
やっぱりウインドラゴンだから、風に当たるのが好きとか、そういうことだろうか。
シロンさんと比べると楽しみ方が微妙にインドア派っていうか、根暗だ。

「……………」
ランシーンさんは無言で風に当たっている。微動だにしない。
社長はまだ呼吸を止めている。食いしばった歯の間から、時折苦しげな息が漏れ、顔にはいっぱい汗をかいている。これもやっぱり、微動だにしない。
異様な緊張感で静まり返る、ダークウィズカンパニー社長室。
ぷるるるるるる…。扇風機の回る音だけが響く。

我慢できなくなって、あたしは社長に小さな声で聞いてみた。
「…あの、あたし、もう帰ってもいいですか」
「しっ!」
すごい勢いでたしなめられた。

「……………」

「……………」
「……………」

何なんだろう、このストレスフルな沈黙。
社長が小さくプルプル震えはじめるのが見えた。泣きそうになっている。
あたしも泣きたくなってきた。こりゃ前任者だって引き継ぎ放り出して逃げ出すよ。

胃が痛くなるような数十秒が流れたあと、ランシーンさんはおもむろに、微妙な声で唸った。
「ふむう……」

それが「とりあえず大丈夫」という合図らしい。
社長がほうっと息を吐いて、あたしに向かって頷いた。
「ご苦労。下がっていいぞ」
「あ、はい。どーも…失礼しました」
息が詰まる空気から解放されて、あたしも心底ほっとした。
本社ビル最上階、こんなに立派な広い部屋で、このように陰惨な儀式が行われているとは。社長は社長で色々大変なんだなあ。
ちょっと頭を下げて出て行こうとしたとき、ランシーンさんの瞳がぎろりと動いた。
「――報告書、読みましたよ」
扇風機の風を顔に当てながら、ランシーンさんは言った。

「!!」
「!?」
再び社長の体が引きつった。
つられてあたしも固まった。
「……………」
「……………」
この空気。ランシーンさんに睨まれてる間は動きを止めてましょうみたいな。だるまさんが転んだ的ギスギス感。
理不尽すぎます。
早く帰りたい。

……。誰だってよかったんですよ…
そこでふらりと視線を逸らし、ランシーンさんは物憂げに呟いた。
『人間の精神の働きによって世界の壁を超え、形あるものとして現れる』。誰だってできます。だから、誰だってよかったんですよ…。『できない』…、それをまさか『できない』、とはね
「……………」
「……………」
ねちねちと繰り返される小言を聞きながら、社長の顔は悲しいくらい青ざめていく。
頑張ってください。あたしはなるべく物音を立てないようにしながらダンボールを回収し、そろそろと扉の方へ向かう。
「『できない』…、『できない』というのは。一体どういうことなんでしょう。しかも、こうして人が話しているというのにまるで聞く気がない――そこの女。帰るな。お前の話をしている」
「えっ!?」
あたしは仰天して動きを止めた。
今、もしかしてあたしが怒られてたの?

「………、……!!」
社長が汗をだらだら垂らしながらこっちを睨んできた。
「………!……!!」
あたしはとりあえずぶんぶんと手を振って否定する。
違います。よく分かんないけど多分違います。

あたしたちが無言のやり取りを繰り広げていると、ランシーンさんがずいっとこちらに首を伸ばしてきた。
暗い瞳が、じっとあたしを見下ろした。
「―――、……。そうだ。お前だ…」
低く低く、ランシーンさんは唸った。
お前が、私を…――。私と、以前にどこかで会ったことはないですか?」

(ちょっと、君!ちゃんと質問にお答えして!)
社長がすごい勢いであたしのわき腹をつつく。今にも気絶しそうな顔になっている。
(そっ、そんなこと言われても…!)
まさか自分に話が振られると思わなくて、あたしもしどろもどろだ。
「だ…だって、ファイアジャイアントさんをリボーンできなかったの、あたしのせいじゃないし…、ええと…会ったことがあるかというと、ええと」

カネルドさん込みで言えば、会ったことなくはないよね、レジェンズキングダムで。
あと、最近ラーメン屋をやってるところにも会った。
シロンさんには全然心当たりがないみたいだったけど、…もしかしたらこの人はそのことを知っているのだろうか。
「…………、……」
忘れた何かを思い出そうとしているかのように、ランシーンさんは切れ長の目を細くしながらじろじろとあたしを眺めている。
雰囲気は全然違うのに、初対面のときのリアクションがシロンさんと一緒なのはちょっと面白い。


ランシーンさんはおもむろに社長に向かって顎をしゃくった。
「君。ちょっと席を外してなさい」
「え?いや、でもここは社長室でございまして…つまり、私の部屋でございまして…」
社長がもごもごと抗議する。
ランシーンさんがドスのきいた声を出して社長をねめつけた。
「あぁぁん?」
社長が気をつけの姿勢で飛び上がった。
「いえ!何でもございません!ごゆっくりどうぞ!!」
そのまますごい勢いで走って行って扉の向こうに消える。

うわー。パワハラだ。パワハラだよ。
見てるだけでも心臓に痛い。いじめ、かっこ悪い。
身の縮む思いで社長の背中を見送って、――それからあたしは、自分がランシーンさんと二人きりになってしまったことに気が付いた。

取り残されてしまった。
どうしよう。

恐る恐る首を動かして、ランシーンさんの方を振り返る。
ランシーンさんはもう一度顎を振り、あたしに空いた社長の椅子を示した。
「…そこにすわんなさい」
有無を言わさぬ声だった。


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