ここは、「ワガママ大王」からの続き





もう今は、携帯扇風機があっても全然物足りない。快適じゃない。
ユルに何度も電話するけど、忙しいらしくてあまり話を聞いてくれない。仕方がないから社長に何度も電話する。
大きいのとか小さいのとか、3枚羽や4枚羽。強くて音の大きいの、弱い代わりに静かなの。何度も取り替えさせて、色んな種類を試す。それでも全てが気に入らない。

今日持ってこさせた物も、やっぱり駄目だった。
投げてぶつける。派手な音を立てて壊れた。後で社長に電話しよう。

ダークウィズカンパニー本社ビル最上階。いつもの場所。4枚羽の巨大なファンが鈍い音を立てて回り、いつもと同じ風を私に送っている。
私は翼を縮めてうずくまり、暗い物思いに沈む。
私はいつからこんなに不機嫌な生き物になってしまったのだろう。理由は分かっている。考えないようにしようとしても止められない。

「シロン…」

嫌いな名前を私は呟く。口の中に苦い味が広がるようだ。
あのウインドラゴンは今、どんな風を感じているのだろう。私と違ってインドア派じゃないウインドラゴン。
彼の横には、風のサーガがいる。
それを思うだけでもう、何もかもが気に入らない。

私の他にもウインドラゴンが存在するのはなぜなのか。キャラかぶってる、っていうか、かぶってない。かぶってない部分にむしろいっそう腹が立つ。なぜあいつの方が私より断然見た目が爽やかなのか。なぜあいつはサーガを持っていて、私は持っていないのか。

筋書きにはない。
理解しがたい。
あるはずもない――

雲が横切り、日が翳る。
洞窟に差し込む唯一の光源が失われ、私の体はすっぽり影に覆われる。

生まれたときの空虚な感覚を思い出す。
私は。
あいつのように大空を舞う風として風のサーガの元に導かれたりは、私は、しなかった。
閉ざされた部屋、淀んだ空気の中で目覚め、辺りは一面暗闇で、自分が何者なのかも分からなかった。自分に何かが足りないことだけを知っていて、焦りが身を焼き、バラバラになりそうだった。自分の中の空洞があまりに大きかったために、覚醒と同時に私は崩壊を始めていた。
ユルがいなかったら、私は自分を維持することができずにそのまま消滅していただろう。産み落とされるのが早すぎた赤子が生きて行くことができないのと同じように。

私はウインドラゴンだ。
私は本当にウインドラゴンなのか。
ユルが私をウインドラゴンだと、そう呼ばなければこの世界に定着できなかったかもしれないほどに私は何かを欠いて生まれてきた。

自分が黒い海に飲み込まれていく思いがする。
私は、あるいは。

「――ランシーンさんのことを、ちょっとネクロムなんじゃないかって思ってました」
知らない声が私に言った。
「見た目とか、性格とか。シロンさんと比べると、ウインドラゴンっぽく、なくないですか?」

ああ。
私は同意し、目を閉じる。
…私もちょうど今、そう思っていたところなんですよ。
何者にも囚われることなく、真っ白な翼を広げて真っ青な空を飛ぶ自由な風、あいつがウインドラゴンならば。
私は一体。
私はあるいは。

淡々と知らない声が続く。
「スケルトンさんに言ったら、笑われたんです。そんな風に思えるあたしの気が知れないって。――あたしも今ようやく、違いが分かりました。全然ネクロムじゃない。あなたは心底ウインドラゴンです、ランシーンさん」
ぼんやりとして顔のない誰かが、全てを見通す私の死角に隠れるようにしていつの間にか私の横に立っている。
これは誰だ。いつからここにいて、何の話をしている。
「あなたが、ウインドラゴンだから悪い。ユルさんは、ランシーンさんがそういう意味で『救う』と言ってたなんて、ほんとは思いもしなかったのに。ユルさんが10年あなたと一緒にいたのは、そうすればいつかラドさんを助けられると思ったからなのに」

ユル、…?私は思わず聞き返す。
私は彼女とユルの話をしていたのだろうか。私のことを闇ではないと断言しつつも、私の属性事情に彼女は興味がないらしく、口調は非難めいている。

「誤解を知ってて、あなたは黙ってた。奥さんを自分が望む意味では助けられないことを知ったときユルさんは――、それでもユルさんがあなたに協力を続けると、本当にそう思ってるんですか?」

思う、疑いなく。
ユルは私を信奉していて、その協力に私は報いる、誠実に。
人間にもたらされる救いが浄化以外にありえないのは当たり前のことだ。
ユルの妻だけでなく、いずれ人間全てがジャバウォックと共に浄化され救済される。
10年待たせてしまったが、ユルの願いもその時叶う。

「…そうですか。闇なら、違う意見です」
顔の見えない誰かは首を振る。
「あたしは違う意見です、ランシーンさん。あなたは人間を知らない。スケルトンさんもガーゴイルさんも、闇なら全て、あなたではなくあたしの味方をするでしょう」

これは一体誰なのだ。
顔が見えない。
私の会社の平凡な制服を着て、軍手をはめた手にぶら下げた安物の懐中電灯が足元の地面だけを照らしている。人工の火は暗がりを晴らすにはあまりにも頼りなく、深い暗闇が彼女に覆いかぶさって私からその正体を隠している。
全てを見通す私の知覚にいつの間に入り込んだのか。

サーガではない。
レジェンズではない。
レジェンズに似ている。…何かが。

「ネクロムならば知っている。人の心に生まれる闇がどんなものかを。あたしにさえ簡単に分かることがあなたには分からない。…それはあなたがウインドラゴンで、闇を知らない風だから」

彼女は繰り返し断言する。私はウインドラゴンだと。
よかった。
私はウインドラゴンなのだ。
シロンという名のあの存在が私の持っていないものを持っていても、影ではなく闇ではなく、私はウインドラゴンなのだ。
顔の見えない誰かの保証にひどく安堵し、同時にどうしようもなく不穏な口調に苛立ちを覚えて私は彼女に向かって爪を振り上げた。
お前は誰だ。なぜここにいる。

私の爪が彼女を引き裂く、その手前で、金属の軋む耳障りな音がして手首にはめられた枷が私の動きを途中で阻んだ。
鎖が張って、それ以上彼女に腕を伸ばすことができない。

――鎖。
いつの間にか無数の鎖に私は繋がれている。両手両足を拘束され、翼には杭を打たれて。
何だ、これは。
状況を理解できずに顔を上げると、風はもう止んでいた。
戦いの引き金は私ではない者の手によって既に引かれた。嵐の前だ。
辺りは恐ろしいほど静まり返り、闇は濃くなり、私を押しつぶすほどに暗い。

困ったような声が言った。
「なぜここにいるって…ランシーンさんが呼んだんじゃないですか?あたしだって、仕事じゃなかったらこんなところに来ませんよ」
知らない誰かは私を見上げ、暢気に当惑する。鎖に繋がれ、怯えているのは私なのに。
小さな虫が這うように、囚われの私の体を彼女がよじ登ってくる。
「謝りましょうよ、ランシーンさん。…今ならきっと、許してくれますよ」

謝る、この私が?
一体誰に?

私の質問に、顔のない誰かはもう答えなかった。
彼女が私の首元へと腕を伸ばしてきて、私は訳もない恐怖に駆られて身をよじる。
この生き物を払いのけたい。
まるで処刑されるのを待つ囚人のようだ。重い鎖に縛られて、私は彼女の行動を止めることができない。
「『カムバック、ランシーン』。…なんちゃって」

ありえない言葉が呟かれ、彼女の小さな白い手はその途端巨大な何かに変貌してぎりぎりと私の喉を締め上げた。
彼女の両手が私の喉を押しつぶして食い込み、縊り取ろうとする。
サーガでもなくレジェンズでもなく、相手はただの人間だ。なのになぜかなすすべもなく圧倒されて私は絶叫する。
何だ、これは。
何が起こっている。
腕がもがれ、羽がもがれていくのを感じる。私という存在が彼女によって押しつぶされていく。
殺されるのか、私は。

――「、貴様!!私に何をした!!」





自分の悲鳴で目が覚めた。
私はいつもの場所にいた。4枚羽の巨大なファンが鈍い音を立てて回り、いつもと同じ風を私に送っていた。
「夢、……?」
太陽を覆っていた雲が通り過ぎ、翳っていた日がまた晴れる。
差し込む日差しを縫うようにして、私の横を丸い光がふわりと横切った。

『君には夢。…僕たちにも』
『今は、まだ』
おかしな声が、そう囁いた気がした。


私は顔を持ち上げ、辺りを見回した。
「…………、気のせいか…」
虫が入ってきてしまったらしい。はたいて追い払う。

夢を見た。
知らない誰かの夢を。
私のあらかじめ知る筋書きの中に、あんな人間がいただろうか。サーガでもなくレジェンズでもなく。

扇風機を持っていたら八つ当たりしているところなのだが、さっきもう投げて壊した後だった。
新しいのを持ってきてもらおう。私は久しぶりに、社長じゃなくてユルに電話する。声を聞いたら安心して、自分が何を不安に思っていたか忘れた。

――あなたはウインドラゴン。
――全然ネクロムじゃない。

過去には会った記憶のない女だったので、多分あれは、未来の出来事なのだろう。
ウインドラゴンは流れる風の全てを知る生き物だ。
全てを知っているはずなのに自分が誰かを知らずに生まれた私、サーガを持たない私。そして、あのシロン。2体のウインドラゴンが存在するありえない世界。
筋書きの狂いつつあるこの世界の中で、未来、私はあの知らない彼女と会うのかもしれない。
過去と未来の全てを等しく同じように知る私は、その記憶を今、夢に見た。

「――私は、ウインドラゴン…」

顔のない彼女は、確かに私にそう言った。
おかげで自分に自信が持てました。
私はウインドラゴン。今のところは、それだけでいい。
あの夢が私の記憶の一部なら、いずれ彼女に会う日も来るだろう、その時は。


闇の匂いがした。
良くないものだ。必ず殺す。


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