第10章−3


「いや…あの、でも。そこは、社長の席なので…」
「あぁぁん?」
「いえ!何でもないです、座らせていただきます!」
おっかなびっくり一応の抵抗を試みたが、ランシーンさんにもう一度ドスのきいた声を出されて諦めた。

です。
発電所から携帯扇風機まで、世界に冠たる巨大コングロマリットであるところのDWC本社ビル最上階。
何とその、社長の椅子に座ってます。

「…………、……」
「…………、……」

肘つきの椅子だ…。
クッションも、ふっかふか…。
ていうか、どうしてこんなことに。
あたしはそろえた膝の上に両手を乗せてじっとうつむく。
どっしりとした広い机の左側には、巨大な体のウインドラゴンが陣取り、物憂げな表情で扇風機の風に当たっている。
社長にさっきそうしていたように、あたしに無駄にプレッシャーをかけている。居心地悪いことこの上ない。

「…名前」
やがてランシーンさんが低く声を発した。
「何と言いましたか」
「……。です」

』ね…そう。確か、そんな名前でしたよ…
ランシーンさんは薄ら笑いながら顎を引くと、天井を睨み、何かを考え込むようにした。
黒目がぐるりと上を向く。
「そんな名前…だったような…――そうでもなかったような…」

イミフ。っていうかパワハラ。
社長の代わりにあたしが今、パワハラされてる。

それきり言葉が途切れ、ランシーンさんはそのまま、本当に長いこと、何も言わなかった。
ぷるるるるるる…。
扇風機の動く音だけが聞こえた。

「…………、……」
「…………、……」

『確か、そんな名前だった』?
やけに含みのある言い方が、ふと気になった。
膝の上に乗せた両手を見つめながら、あたしはぐるぐる考える。
ランシーンさんはウインドラゴンだ。そしてあたしに、どこかで会ったことがあるかと聞いてきた。
それは、いつどこの場所での、どんな記憶に基づいてのことなんだろう。

おっかないけど、そのことについてはちゃんと聞いておいた方がいいと思われます。
シロンさんが覚えていないことを、ランシーンさんが覚えているとしたら。
世界の外から来たあたしに会った記憶もあるのだとしたら。

「…………、……」
「…………、……」

えーと。
っていうかランシーンさんは、あたしに何か話があるんだよね?ないのかな?
あまりにも長く沈黙が続くせいで、段々疑わしく思えてきた。

そうと気付く余裕もない間に、背中にびっしょり嫌な汗をかいていた。
気付いてみると濡れた感覚が気持ち悪い。もぞもぞと居ずまいを直し、ついでにこっそり深呼吸する。

「…………、……」
「…………、……」

いつまでこうしてたらいいんだろ。
机左側から陰気なプレッシャーがぐいぐい来てる状況はさっきから全然変わってないんだけど、何だかちょっと、だれてきた。
ずっと息を止めたままではいられないのと一緒で、つまり、恐怖や緊張って、長時間持続させることができない種類のものらしい。
あたしはちらりと目だけを動かして、ランシーンさんの様子を伺った。

ランシーンさんが扇風機を止めた。
ゆっくりと腕を下ろし、そのままあたしを見つめている。

目があったけど特に叱られなかったので、あたしはランシーンさんに恐る恐る顔を向けた。
「……あのぅ。ランシーンさん…?」
返事の代わりに鋭い風が流れて、ぴしり、と頬にぶつかった。
思わず身を縮める。
「…………、……」
ランシーンさんはあたしをじっと見下ろしながら、ためらうように、何かを考え込んでいる。
用心深く細められ、影に覆われた暗い瞳が、あたしの動きに合わせて時折揺れる――その時になってあたしはようやく、ランシーンさんが細心の注意を払ってあたしを観察しているのだと気が付いた。

「?」
眉をひそめるあたしを見て、ランシーンさんがわずかに身じろぎする。羽をたたんで、自分の方に引き寄せるようにした。
腕の表面に浮き上がった血管が動いて、筋肉が張り詰めているのが見て取れた。
身構えている。
警戒している。
…その視線が、あたしに向けられている。

訳が分からなくなって、あたしはごくりと唾を飲み込んだ。
おっかない雰囲気の人だ。
今まで会ったレジェンズたちとは違う、異様な空気を感じる人だ。
うまく言えないけど、それは、この人自身が何かをひどく恐れているせいじゃないかと思う。息が止まりそうなほどぴりぴりした風が、幾重にもランシーンさんの周囲を取り巻いている。
「あの、ランシーンさん。……。突然このようなことをお尋ねするのは、大変失礼かとは思うのですが」
この状況を何て表現したらいいのか分からなくて、言い淀む。
「……、もしかして、あたしのことが怖いんですか?」

「!!」
あたしの言葉に、ランシーンさんは横っ面をひっぱたかれたかのようによろめいた。
「!?」
覿面な反応に度肝を抜かれ、あたしはそのまま固まった。
まさかの図星。
でも、何で??

そしてどうやら、理由を聞くことはできそうにない。
噛み締めた歯がぎりっと鳴る音がして、ランシーン様は体勢を立て直して向き直るや、凄まじい目つきであたしを睨みつけた。
図星っぽいけど。
言わない方が良かったみたい。
あたしを観察しながら、ランシーンさんは多分、ついさっきまで何かを迷っていた…そしてたった今あたしの言葉で針が目盛りを振り切った。
ランシーンさんの瞳の奥にわだかまっていたもやもやした影。
一瞬で焦点を合わせ、黒い塊になり、明確な形を取ってあたしに向けられたのは
「――殺す」
「えっ?」
殺意だ。
何で??

同時に体が浮き上がるほどの風が吹き付け、髪が逆立つ。
「ぎゃっ!?」
ランシーンさんが足を踏み出し、力を込めた腕が振られた。
床に転げ落ちるあたしの横で、社長の椅子がなぎ倒され、ばきばきと無残に砕けた。

「私は!!お前を…――恐れてなどいない!!殺す!今ここで!!」
「えええええええええーーーーーっ!!?」

先ほどまでの物憂げな沈黙から一転、ランシーンさんの動きは信じられないほど速く、迷いがない。
ばきっ!
鉤爪の手が、虫を叩き潰すかのような動作であたしめがけて続けざまに振り下ろされる。
「ええええええーーーーーっ!!?何でええええええーーーーーっ!!?」
あたしは悲鳴を上げながら床を転がって逃げた。
書類や小物が風に巻き上げられてすっ飛んでいく。
ばきっ!
勢いよく振られた爪が机の端をかすってえぐり、攻撃の軌道が反れて、これは少しだけ余裕を持って避けることができた。
砕けた木のかけらがぴしぴしこっちに飛んでくる。あたしは夢中で起き上がった。

最悪だ!!
最悪だよこの人!!
シロンさんより!遥かにひどい!

意味分かんないので、とにかく逃げる。出口目指して全力ダッシュ。
ちらりと確認した視界の端、あたしの背後で、ランシーン様が鼻で笑って翼を広げた。
「ハン!」
そのまま机を蹴り倒すなり、あっさりあたしの頭上を飛び越え、床を揺らしながらあたしの行く手を塞いで着地する。
「!!」
慌てて向きを変えかけたところで、振り下ろされた手が、あたしの体をかすった。
前のめりになって避けたが、逃げ切れなくて片方の足首が引っかかったのを掴まれ、すくい上げられる。
持ち上げられながら、ぐるんと視界が回った。

足首を掴まれ、逆さに吊り下げられた。
ランシーンさんはその体勢でつくづくあたしを見下ろした。獲物に対する圧倒的な優位を眺め、確かめているかのように。
「フ…フハハハハ!何と他愛もない…!」
ランシーンさんが口の端を歪めて笑った。
「見ろ、このざまを。この私が、なぜお前のような者を恐れるというのだ…!」

こんなイミフな逆ギレする人、初めて見ました。
話するってレベルじゃないよ。このウインドラゴンは、初対面にしてもう手の施しようがないよ。

もう何もできなくなったあたしは、
「ぎゃーーー、放してーー!!」
とりあえず悲鳴を上げた。
「放してーーー助けてぇーー!!ぶちょ…、」
いつもの癖で部長に助けを求めかけ、あたしは自分がもうレジェンズ班の人間ではなくなっていたことを思い出した。

こんなに理不尽な目に遭ってるのに、一人ぼっちだ。
空気読まずに強気なフォローを入れてくれる人も、一緒にやられてくれる人も、ここにはいない。
急に心が折れた気がした。
「部長ぉー。JJさーん。うわ〜〜〜ん!!」
いなくなってから気が付く。あたしはあの人たちを今までどんだけ頼りにしてきたことだろう。
左遷なんて大嫌いだ。

逆さまになったままめそめそしていたら、ランシーンさんの動きが止まった。
拍子抜けしたような声が、ぽつりと呟く。
「……、……。これではまるで、ただの人間ではないか」
一体あたしにどんな反応を期待していたのか。
期待外れだったことは確かなようだ。
いったん爆発させた激情が収まれば、振り切れた針はゆるゆると元の位置に返り、見開かれた両の瞳は再び物憂げに細められ、暗い空気に沈んでいく。

「あれは、本当にこの女だったのか、…――。こうして見ると、何だか、そうでもなかったような…」
ランシーンさんはあたしを吊るした腕を持ち上げ、しげしげと顔を覗き込んだ。
もう片方の爪の先が近づき、のろのろとあたしの頬をついた。
ぷに。
押されて首が動く。
「…?」
ランシーンさんは感に堪えないように言った。
「――何と間抜けな顔だろう」
失礼な。

でも、情けなく見えれば助けていただけるんですね!?
両手で顔を覆って、もう一押し泣いてみることにした。
「うわ〜ん。うわ〜ん。…て、ぎゃっ!!」
途中でいきなりランシーンさんが手を離す。あたしはあっさり顔から床に墜落して引っくり返った。
「今のはダメ」
ランシーンさんは溜息をついて首を横に振る。
「わざとらしい浅知恵を感じた。全然、ダメ」
「あ、さようですか…すいません…」
ほんとこの人はあたしに何を期待してるんだよ。
あたしはふらふらしながら体を起こして、ぶつけた鼻を撫でた。

ランシーンさんの爪の形に、絨毯ごとえぐられた床。
あたしの代わりに砕けてばらばらになった、肘付きの椅子。どっしりと重そうな机は、蹴り倒されて割れている。
踏まれて破れ、そこらじゅうに撒き散らかされた書類。

「……、ええと」
風が収まったから、多分、嵐は過ぎ去ったのだろう。
この隙に逃げ出した方が賢明なのかもしれないが、下手な行動で刺激したらランシーンさんがまた逆上しかねないし、今更足がぶるぶる震えて、もう立ち上がれそうにない。
頭真っ白。
あたしはしばらく、呆然とランシーンさんの足元に座り込んでいた。

「い…今のは一体何だったんですか??」
ぽかんとしたまま、あたしは聞いた。
「何かの冗談?…ただの、悪質な嫌がらせ?」

「……。もちろん私は、お前を恐れてなどいないのだ…最初から」
悪い夢から覚めたような声で、ランシーンさんは言った。
「あれが、お前であるはずはない。人違いでした」
「そうですね…、よく分かんないけど、人違いです…」

言いながら、もしかしたら人違いじゃないのかもしれないとあたしは思い始めている。
ウインドラゴンは、この世の全てをあらかじめ知る力を持っていて――
言動からして、間違いなくこの人は、シロンさんが知らないことを何か知っている。それだけは確かだ。
あたしを疑い、殺したいと思うほどの何を、この人は見たのだろう。

それを本人の口から聞き出すのは、ものすごく難しそうだった。

ランシーンさんが溜息をつく。
今はすっかりあたしに興味を失い、世界の全てが面倒くさくてたまらないのだと言いたげな表情だった。
自分が暴れた修羅場の跡を一通り見渡した後、おもむろに片足を持ち上げる。
「は〜…」
大きな足が丁寧に水平に動き、床に転がった扇風機をくしゃりとすり潰した。

「…片付けなさい。早く」
と、ランシーンさんは命令した。
「…………、……」
せっかく持ってきたのに。と、突っ込む気さえ起こらない。
ランシーンさんにつられて、あたしも溜息をついた。
陰気な話になりそうだ。


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