第9章−8


暮れなずむブルックリンのオフィス街、あたしはうつむき、靴の先で所在無く石畳を蹴りながら、会社を去りゆく同僚と語り合う。
「すみませんでした…。何のお役にも立てず…、……」
「いやぁ。いいんですよ」
エドさんは諦めたような笑みを浮かべて、あたしに向かって弱々しく首を振ってみせた。
「こーゆーことになるんじゃないかと、以前から薄々覚悟はしておりました…。最後にレジェンズ班でお仕事ができてよかったです」

「ほ、ほんとですか、それ」
エドさんから来てからこっちの自分たちの仕事を思い浮かべて、あたしは目を剥いた。
何かいいことあったっけ。コスプレしたりなんだりで、この人は割とろくな目にあってなかったと思うんだけど。

「本当です。もちろん、すごく驚きましたけど…だからこそ、世界にはまだ、こんなにわたくしの知らないことがある。この年にしてわたくし、そう思えました」
視線は合わせづらいのだろう。あたしと向かい合いつつも、エドさんはあたしではなくあたしの足元3メートルくらい横の地面をぼんやりと眺めている。
頭のてっぺんで七三分けされた髪が、風に吹かれてはたはたと揺れていた。
「そうして考えたのです。ひょっとしたらわたくしは、自分のことさえまだ良く知らないのかもしれないと…。自分が何のためにここにいるのかとか。これから自分に何ができるのかとか」
「…………」
「もちろんわたくし、ご覧のようにごくごくふつーのサラリーマン…、元、サラリーマンですが。他人と違う特別なものなど、何も持ってはいませんが。でも、もしかしたら、本当にやりたいこととか、やるべきこととか、…本当の自分っていうの?そういうの、本当はわたくしにもちゃんとあって、それをまだ見つけられていないだけなのかもしれないのです。今は、そんな風に思うのです…」

「エドさんの言いたいこと、分かります」
あたしは無駄に力みながらエドさんに同意した。
「これは昨日聞いた話なんですけど。人って、何にでもなれるんだそうですよ」
何にでもなれる。それはいいことのはず。
ヴァネッサさんが何を悲しんでいたかは分からないけど、その人が言ってたこと自体は、きっといい話のはずなのだ。

「人はいつからだって変われるし、これからどんな人になりたいかを、自分で選べるんだって。そうですよ、エドさん普段の態度の割には、調子に乗ると強気な性格だったりするし…」
エドさんのやりたいこと。エドさんのやるべきこと。
これから、見つけられるといいなと思う。
いきなりクビになっちゃってあまりにも気の毒だから、心からそう思う。

「そうですよね。…わたくし、頑張ります」
エドさんは弱々しく微笑み、あたしに向かってくっと親指を立ててみせた。
薄茶色の可憐な垂れ目が、夕日を浴びてきらんと光った。
「じゃ…行きますね」
「はい…どうか、お元気で」

あたしはぺこりと頭を下げる。
エドさんがゆっくりと体の向きを変え、会社のビルに背を向ける。
一歩を踏み出そうとしながら、
「……。はぁぁ〜〜〜」
エドさんは、長い溜息を漏らした。
しおしおと肩が丸まる。
――精一杯前向きな会話をしてはみたけれど。クビはやっぱり嫌なものだ。

夕焼けの空を見つめながら、エドさんが段々遠い目になっていく。
「え…エドさん!!ファイトです!!」
「あ、そうですよね、はい!」

あたしは慌てて声を張り上げ、エドさんも我に返って背筋を伸ばした。
どうもテンションが下がっていけない。
一応これは新たな門出なのだから、エドさんには顔を上げて旅立っていってもらいたいし、あたしももっとポジティブな気持ちでエドさんを見送るべきだ。
そうして視線を上げたあたしたちは、そのときになってようやく――半ブロックほど通りを行った先に、異様に大柄な体格の人が体育座りしていることに気が付いたのだった。
「あ」
「あれって…」

ファイアジャイアントさんだ。
ていうか、街角でたそがれる巨大生レジェンズて、目立ちすぎ。二人揃って今まで気が付かなかったとは。あたしたちが会話しながらどんだけ下ばっか向いてたかを思い知るようだ。
人並み外れて大きな体が歩道をふさぎ、見るからに通行の邪魔になっている。
行き交う人の流れがつっかえ、ぶつかりながら迂回していくたびに、申し訳なさそうに身を縮めているが、そもそもどうしてあんなところに座ってるんだろう。
会社に帰りたいけど、帰れない。そんな心情をひしひしと感じる、中途半端な距離感。

「あーあ。ファイアードジャイアントになっちまった…」

距離は離れているのに、ファイアジャイアントさんの周りに流れる空気を感じた。
あたしとエドさんの周りに漂う空気と同じもの。
向こうはこちらに気付いていない。言葉も交わしていない。でも、体育座りしたその姿が視界に入った瞬間、物理的な距離を飛び越え、あたしたちは同じ空気でつながってしまったのだ。
エドさんとファイアジャイアントさん。同じ気持ちになっているのが分かる。
ひしひしと伝わってくる――ファイアジャイアントさんもクビになってしまったのだということが。ていうか、いつの間にそんなことに。


吸い寄せられるようにエドさんが歩き出した。あたしも後ろを付いていく。

「ファイアジャイアント?」
エドさんが声をかけると、ファイアジャイアントさんがはっと顔を上げた。
「…………、……」
不気味な仮面の奥のつぶらな瞳が、エドさんを見つけて、うるうる潤んだ。
何も言わなくても分かってしまうことがあるのは、ファイアジャイアントさんの方でも同じみたいだった。
互いの名前を呼び合う。
「ファイアジャイアント…」
「火の、サーガ…」

サーガと呼ばれたエドさんは、ちょっとためらうようにした。
「いや…それは、わたくしのことでは…」

とっさに「そんなことないですよ」と横から訂正したくなったが、でもよく考えたらエドさんの言ってることが違うわけでもないのだった。
否定したいけど、何て言えばいいんだろう。ちょっと困る。
あたしが横で首を振ってることに気付いたエドさんが、ゆるく笑った。
「…、どうでもいいかぁ」
「ええ。…」
エドさんは、レジェンズウォーとか螺旋の運命的な意味では、「本物の火のサーガ」ではなかった。
世界の運命にとっては、エドさんは特別な人じゃない。…しかし今、エドさんとファイアジャイアントさんの間において、それはものすごくどうでもいいことなのではないだろうか。

ファイアジャイアントさんがエドさんをサーガと呼ぶなら、エドさんはやっぱり火のサーガなのだ。
レジェンズと人間。二つの違う存在が同じ空気でつながっていて、何も言わなくても自分と相手が同じ気持ちだって分かる。それが特別な絆でなくてなんだろう。
そういうことを、あたしは言いたいです。

エドさんがファイアジャイアントさんに手を伸ばす。
ファイアジャイアントさんが体育座りしていた手を解き、体格の違いすぎる二人は、不器用に握手した。

「ファイアジャイアント…」
「火の、サーガ…」

その日、この東京砂漠(じゃないけど)にひとつの愛が生まれた。のをあたしは見た。
―――もしここで終わっていれば、多分、とてもいい話だった。


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