第9章−4


その日、会社の帰り道に、あたしは青屋根のお屋敷に立ち寄った。
「ドクター・コンラッドー。いますかぁー」

緑のドアが開いて、黒白の猫ちゃんが顔を出す。
「おや、アナタですか。どうしたんです」
「こないだここに来たとき、社員手帳を置き忘れたんじゃないかと思って。探して行ってもいいですか?」
「構いませんとも」
コンラッド博士は愛想よくあたしを迎え入れてくれて、あたしは溜息をつきながらこの前の応接室へと急いだ。

考えてみたら、ハルカ先生があたしの社員手帳を持って行ったと決めつけるのはまだ早いよね。
あの時は、とにかく色々どたばたしてた。
それに、たとえ持って行かれたとしても、中身を見られてしまうとは限らない。他人の手帳はプライバシーだ。普通の状況なら、あまり覗かれないものだ。
…普通の状況なら。
シロンさんは、ハルカ先生にDWCを調べてくれって頼んでたらしいけど。
頼みを引き受けたハルカ先生は、DWC本社に単身潜入までしてたわけだけど。その上自分のお父さんがそのDWCのトップだと知らされ、思いもかけない事実に大変ショックを受けていた。

あからさまにレジェンズに関係しているっぽいDWC社員の、社員手帳。
手元にあったら放っておくだろうか。
どんな些細な情報でも得たいと思ったり、しないだろうか。
そうしてページをめくるハルカ先生が見るものは、螺旋の書も真っ青、時系列を超越して各話の流れを予言し、レジェンズウォーだの出てくるキャラだの、完全メタ視点のあたしのメモの数々で…

「……。やめやめ!今の想像、なし!!」
自分で自分の想像に不安になってきたので、あたしはそこで考えるのを止めた。

つまりは、単純にここに置き忘れてるって可能性が一番高いと思う。多分。

この前、皆でレジェンズ研究者のフリをするのに使った、雰囲気のあるレトロ調の書斎兼応接室。
ねずっちょと猫ちゃんが獣のような追いかけっこをしたせいで、部屋はあちこち物がひっくり返ったままだった。
本は棚からなだれ落ち、テーブルの上からなぎ払われた書類が床に散乱している。
「ちょうど、誰かに片付けて欲しいと思っていたところなんですよ」
コンラッド博士が喉を鳴らした。
「ワタシ、肉体労働は苦手なものですから」
「うわー、ワガママだなあ…」

まあいいけど。
遠慮なく探し物ができそうな雰囲気なので、あたしとしても特に文句はない。

とりあえずあの時手帳を渡した場所、応接セットの周りから探す。
ソファの隙間に手を突っ込んで挟まっていないか確認してから、周りに散らばった物をひとまとめにして積み上げる。床に落ちたものを拾う。
猫ちゃんが紅茶を淹れてくれた。
「そういえば、アナタ。ウインドラゴンに話をすると言っていた件はどうなりました?」
「……。こないだ、一緒にウィングトルネードを食らったじゃないですか。お察しください」
「ふ〜ん。…」

「…博士もちょっとは手伝ってくださいよ」
「にゃーん」
博士は床に散らばった本を数冊棚に戻したが、いくらも経たないうちに拾った本の一冊を広げて窓際でごろごろし始めた。

「博士はレジェンズなのに、人間が書いた本も読むんですね。…人間の歴史のことまで無駄に良く知ってるなあと、前から思ってました」
「まあ、暇つぶしにね」
猫ちゃんは優雅な動作で手にした本のページをめくった。
「形が見えますから」
「形?」
「語られる物語の、形です。語られている側からすれば、普段はなかなか見えないものですよ」
「へえ〜。…」
何となく相槌を打ってみたけど。
言ってる意味は、よく分からない。

目当ての物は見つからないまま、ソファの周りは大体片付いてしまった。
「うーん。ないなあ…」
辺りを見回し、あたしは溜息をついた。
一番ありそうな場所になかった。
ここになければ、ハルカ先生が持ってることになる。

捜索範囲を拡大して、まだ探す。
「うーん。…うーん。困ったなあ」
頭を抱えるあたしを横目に、猫ちゃんはひたすら日なたでごろごろしている。
あたしがこんなに困っていると言うのに、まるで気にしていない。呑気なものだ。

倒れていた物を全て元に戻し、床を掃く。
ついでにその箒の柄で家具の下を探る。
ひょっとしたら本と本の間に挟まってはいないかと四方の本棚を端から漁り始めた頃、ドクター・コンラッドは思いついたように本から目を上げ、こちらを見つめた。
「――例えば、この部屋に多くある人間の物語では、変革を望む者は往々にして憎まれます」
と、藪から棒に猫ちゃんは言った。
「なぜなら彼の持つ熱情は周囲に感染を引き起こし、心からの叫びは世界に爪痕を残すからです。人間が真似て作った書物の中においてそのようにある、これが、物語の形です」
あたしは上の空で相槌を打つ。
「ああ。うん。そうですね…何の話をしてたんでしたっけ」
「形の話ですよ。アナタのことを、ちょっと不思議な人間だと思ったんです」
「……?」

「自称するには、螺旋の外から来たんでしょ。会ったばかりのワタシにざっくり告白した割には、どうやら他人に公言して回っているというわけでもないようだ」
「ああ。そうですねー。博士以外には、まだ誰にも言ってないです」
猫ちゃんの口調に警戒の色はなく、あたしも、片付けしながら適当に答える。
こんな風に何てことない話題として扱ってくれるのは、多分この人だけだろう。
「仲のいい人に話してみようと思ったことはあったし。言えたら、シロンさんにも言いたかったんだけど…まあ、色々あって」

「ふふん。ワタシの頭脳がそんなに頼もしかったということですか」
「いや、別に。博士、そういうのあんまり気にしなそうだから」
実際、今も気にしてなさそうだ。
「ドリームランド・プロジェクトの話を聞いて…あの話の中身が全部分かったわけじゃないけど、博士になら言っても大丈夫なんだろうなと、思って」
たとえあたしの話が闇っぽいことだったとしても、博士にとっては恐らく大した問題ではないはずだ。
ダンディーに対する信頼とは別の意味で、あたしはコンラッド博士のこの性格を信頼してるってことなんだろう。
猫ちゃんが鼻を鳴らして、微妙な笑い声を出す。
「けだし慧眼、ですね。全然そうは見えないけど、アナタは意外と賢い人間だと思いますよ」
「ははは。どうも。…」

何ぶん他のことに気を取られていたもので、話の文脈を把握し、博士の言わんとすることを理解できたのは、しばらく経ってからだった。
あたしは掃除の手を止めて博士の方を振り返った。
「…本当は、話す相手をこんな基準で選ぶべきじゃないのかな。あたしには情熱が足りないと思いますか?」

「どうなんでしょうね。ただ、ワタシは不思議なんですよ」
と、猫ちゃんはかわいらしく首をかしげて呟いた。
「螺旋の運命が我々の世界の全てであるはずはない――と。それは、因果の根源を否定しようとしたあのレジェンズも言ったことです。彼の叫びは誰にも理解されることはなく、彼はといえば、その主張によって己の身を滅ぼすことになりました」

レジェンズウォーを止めたいと話したとき、ダンディーにすごく冷たい反応をされたことを思い出す。
よく分からないけど何となく怯んで、あたしは頷いた。
「お。おおぅ…じゃあ、やっぱ言わない方がいいんじゃん…」

「どうなんでしょうね。…恐らくはね」
どことなく人を落ち着かなくさせる博士の奇妙な目の色が、今はあたしに向けられている。
猫ちゃんはしげしげとあたしを眺めて、言った。
「つまり、そういう意味では、見た目に似合わずアナタは賢いわけですよ。異端を主張しながらも、アナタに異端の熱狂はない。物を知らない素直な人間であると同時に、誰よりも冷徹な目を持っている。――」
「……………」
「それがどういうことなのか、ワタシには判断が付きかねます。…面白いことになるのなら、ワタシは構いませんけどね」

何なんだろうね。
博士がこういう薀蓄を話すときの目だって、相当冷たいものがあると思うんだけど。
結局社員手帳は見つからなくて、その日の成果は、何だか不吉っぽく聞こえるこの予言だけだった。


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