第6章−7


波は次第に収まって、いつも通りに水をたたえたイーストリバーが戻ってくる。
辺りはすっかり静まり返った。

部長とJJさんが車から降りてきた。しんとした空気の中、車のドアの開け閉めの音がやけに大きく響く。
「だ…大丈夫かしら」
部長がごくりと唾を飲み込んだ。
J1さんが引き気味にあたしを非難する。
「新人、お前がキャラでもないのに張り切るから…」
「だ、だってー…」


ざぶり。
随分時間が経った後、下流の方で飛行帽をかぶった頭が水面から突き出るのが見えた。
シロンさんだ。
水に濡れた羽を重そうに引きずりながら、浅いところに上がってくる。
その腕にぐったりとなったシュウが抱えられているのが見えて、全員がとりあえず息をついた。

シュウは風のサーガだ。
シュウの周りにはいつでもふわふわ軽い空気が漂っている。
あたしはそれを、シュウの持っている何か特別な力なんじゃないかと思いそうになっていたけれど。
シュウの周りの不思議な風は、ピンチの時には結構無力みたい。物理的な暴力からシュウを守ってくれる訳では、別にないのだった。
ただの子供なんだ。
怖いくらいに小さく見える。

茶色い手袋をはめた大きな手が、震えながら、シュウの体を丁寧に地面に乗せた。
「『風のサーガ』、…」
呼ばれたシュウがぼんやり目を開ける。
シュウが意識を取り戻したのを見て、シロンさんは安心したように首を垂れ、荒い息を吐きながらその場にうずくまってしまった。かなり消耗しているようだ。
「戦いを、甘く見るんじゃねぇ…」
「……。はひ…」
全くだよ。あたしもどうなることかと思いました。
マックとメグが心配そうにシュウに駆け寄っていく。

子供たちの様子を眺めながら、部長が怒ったような声を出した。
「いいわ、もう。今日のところは引き上げるわよ!」
「はあ。それがいいですね…」
溜息をつきながら部長に同意しかけ、その途中で、あたしは柵をつかんで身を乗り出した。
今気がついた。
――シロンさんが、こっちに背中を向けている。

引かれたバネが戻ってきたみたいに、じりじり不利になっていく戦況をじりじりしながら見ていたときの気持ちが、突然戻ってきた。あたしは弾かれたようにさっきまでのテンションに立ち返る。
もうダメかと思った、でも、状況が変わった。
大量の水を吸って重そうに垂れ下がる、シロンさんの羽。もう風を起こすこともできなそうだ。
うずくまってる。
背中を狙える。
あたしはシロンさんを指差しながら叫んだ。
「よっしゃ弱ってる!ダンディー、チャーーンスッ!!」

「おおぅ、そういやそうだわ!」
がばっとダンディーが身構えた。
「そんなガキんちょかばうたぁ、テメエもヤキが回ったなシロン!これで、止めだぁ!!」

もう身体を反転させる力も残っていない。
シロンさんが観念したかのように目を閉じ、うなだれた。
「ああ…、やるなら今だぜ。…俺の首とりゃあ、組織に顔が立つんだろ?」

正直ちょっと元々の目的を忘れかけていたあたしは、シロンさんの言葉に一瞬、虚を突かれた。
「えっ。…ええーと」

別に、そういうわけじゃないです。本当は今、撤退しようとしていたところだ。
さらに良く良く考えると、レジェンズ班の任務ってシュウのタリスポッドを奪うことであって、シロンさんをやっつけることではなかったような気がする。
面食らったのはダンディーも同じだったようだ。
「ああん?」
怪訝そうに聞き返しながら、思わず攻撃を溜める手が止まる。見透かしたかのようにシロンさんの声が飛んだ。
「どしたぁ。ハリアップ!!」

シロンさん。ちょっと訛ってる。

倒そうとしている相手に「やれ」と叱咤されて、しかもそれが変に巻き舌なもんで、ダンディーは完全に勢いをくじかれて怯んでしまう。
シロンさんがかすかに首をもたげて静かな視線を投げてきた。
「だがな…、これだけは言っておくぜ。お前らは、俺に勝って大事なものを失うのさ…」



ダンディーが微妙な顔になってあたしを振り返った。
「何。何の話してんの?」
「わかんない…」

優美な長い首を曲げ、背中越しにダンディーを見つめる、シロンさんの青い瞳。水もしたたる好男子ってこういう状況を言うのだろうか。飛行帽から覗く金髪からぽたぽたと水が垂れて、青白の首筋を濡らしている。
さすが主役だ。
やられそうなときでもカッコいい。一体何の話なのかよく分からないにもかかわらず、これから何か大切なことを言おうとしているのだと思わせる、途方もなくハードボイルドな雰囲気がある。命令されたわけでもないのに、あたしもダンディーも思わずシロンさんの次の言葉を待った。
かすれがちな声が語る。
「戦いの強さが優劣を決めるんじゃねェ。――本当の強さは…そんなところにねェッてことヨ」

「!?」
攻撃の構えはそのまま、ダンディーが雷に打たれたように後ずさった。
あたしは立ちすくんでシロンさんを見つめた。
「本当の、強さ…?」

それは勝つことだ。
強い者が勝つのではなく、勝った者が強いのだ。

なぜなら、チャンスは、どんな立場にあっても平等に与えられるものでなければならないからだ。花形とザコの間に生まれつき敵わない差があるなんて、あたしは嫌だ。
そして今、ダンディーに負けそうになっているのはシロンさんの方であり、ダンディーが溜めている攻撃を背中の羽にぶつければ、それで止めをさせるのだ。
なのにあたしは、何でこんなに焦ってるんだろう。

ダンディーが食い下がる。
「ワァット!?じゃ、じゃあ…本当の強さって言うのは何だって言うんだ!?」
ああ、聞かない方がいいと思う。
根拠はないけど、漂う空気がそういう感じだ。まるで全てを見通しているかのようなシロンさんの静かな目。
答えを聞いてしまったら、きっとあたしたちは永遠にこの人には勝てないのだ。
「フッ。それはな、…――」
シロンさんは口の端をわずかに上げて渋い笑みを漏らした。


「愛…よ…」


「あいぃぃぃ!!?」
ぱぁん。
チャージ中のダンディーの水の弾が、針で突かれた水風船のようにはじけて四散した。
あたしはその場にかくりと膝を付いた。

本当の強さ。
それは愛。

色々画策してきた自分が、急に小さく思えた。
あたしたちは一体、何に勝とうとしていたんだろう。
何を手に入れる気でいたんだろう。あたしが本当に打ち破りたいと思ったものは、シロンさん自身ではなかったはずなのに。シロンさんを倒し、その強さを否定することさえできれば、何かを達成できるような気分になっていた。いつの間にか。
戦いの強さで優劣を決めることにこだわって…
本当の強さを知っている人から見たら、それは、くだらないことなんだろうか。
くだらないことのような気がします。――シロンさんは、最初からあたしたちと同じ次元になどいなかったのだ。

ダンディーの目から感動の涙が溢れる。
「オゥ、ノウ…ミーーーの負けだ!!アンタは何て、懐の大きなレジェンズなんだぁあああ!!」
シロンさんが静かに起き上がった。
「ユーも…本当の強さにいつか出会うときが来るぜ…そう。本当の、愛になあ…」

ああ、シロンさんの言うとおりだ。
あたしたちもいつかはそう、本当の愛に…



って、これ、そんな話だったっけ。

あたしが首をかしげたところで、ダンディーが溢れる涙をぬぐいながら岸に上がってきた。
「俺の負けだ…、完敗だ…」
あたしは肩を落とした。
「しょーがないよ、ダンディー…あたしたちは余りにも小さな人間だったよ…」
「そうだな…。レジェンズの格は、半可な戦いの優劣なんかで決められるものじゃねえ。あの人は…シロンさんは」
ダンディーは乙女のように胸元を手で押さえ、眩しそうな目でシロンさんを見上げた。いつになくキラキラしている。
「俺の…――心の兄貴よ…!!」

すごい飛躍だ。
でも、気持ちは分かる。そう…まあ、何だかんだ言っても。
あたしは溜息をつきながら、ダンディーと一緒になってシロンさんを見上げた。
「フッ…」
シロンさんは目をつぶって空を仰ぐ。その表情は、とても渋くて賢そうだ。真っ白な翼が持ち上がり、一つ一つの羽が綺麗な角度を付けながら広がって、水を払い落とし、風に吹かれる。

結局のところ、花形レジェンズはどこまでもカッコいいのだった。
誰かを超えたいと願うことは、憧れてるのと大差ないのかもしれない。


「はー…」
ぼんやりシロンさんの姿を眺めていたら、突然傘の先でわき腹をつつかれた。
「あぅっ!?」
「これ。返します」
さっき貸した傘とタオルが突き出される。
メグが呆れたようにあたしを睨んでいた。
「結局何がしたかったのよ、アンタたち…。ほんと、相変わらず訳分かんないわ」

「いやぁ、面目ない…」
ダンディーは照れ笑いを浮かべながら、メグの首から下がったカメラに目を向けた。
「つーかさ。迷惑ついでに、一個お願いしてもいいかなぁ?」


メグにお願いするような何の用事があるのかと思ったら、つまりこういうことだった。
ダンディーがシロンさんを見上げて呼びかける。
「シロンの兄貴〜!今日の記念に、一緒に写真とってくれませんか〜!!」
「うわっ。ダンディー、ミーハー…」

ダンディーに憧れのまなざしで見つめられ、シロンさんはまんざらでもない表情になった。
「ふふん。お前さん、なかなか素直だな。見所あるぜ…」
快くこっちに腕を差し出して、ダンディーを手のひらの上に乗せてくれる。
「へっへっへ。サラマンダーに会ったら自慢しよー」

心の兄貴と記念撮影か。
お守りにでもするんだろうな。シロンさん、カッコいいもんな。
いそいそとシロンさんの肩によじ登るダンディーを眺めながら、あたしはちょっと鼻白んだ。
何だかなあ。
いくらシロンさんがカッコよくたって、仮にもさっきまでやっつけようとしていた相手で、その計画は、あたしと一緒に立てたのに。

あたしが面白くなさそうなのを見てとったのか、ダンディーが笑って手招きした。
もおいでー」
「…あたしはいいよ」
返事をしながら、自分の口がとんがるのが分かる。
あたしは誘いを断ってそっぽを向く。その場を離れて、とぼとぼと部長たちの横に立った。
「ぶ…部長ー。見てくださいよ、あれ。記念撮影なんかしようとしてるー…」
告げ口してみる。
J2さんが鼻で笑った。
「何すねてんだ。ワニ相手に」
「だって、ダンディーが」

「混ざりたいんならさっさと済ませなさい。もう帰るんだから」
部長が興味なさそうに言った。
怒ってくれるかと思ったのに。シュウの無事を確認して安心した時点で、今日の部長の攻撃のターンはどうやら終わってしまったらしい。
「でも、でもー…!」
ますます面白くない気分になって、両手を振り回しながら何を言おうか考えていたところで、シロンさんの手がにゅっと伸びてきてあたしの後ろの襟首をつかんだ。
「そこ。グズグズすんな」
「ぎゃー!?」
持ち上げられて、そのまま体が宙に浮く。
ひょいっと腕が振られて、あたしはあっさりとシロンさんの肩の上、ダンディーの隣に納まった。首に近い側に乗っけられて、傾斜がきつい。体がずり落ちそうになり、隣に座ってるダンディーが滑り止めになって、つっかえる。

しばらくは、目が点になっちゃったまま動けなかった。
初めてウインドラゴンに乗りました。
視界が高いなあ。
何かのアトラクションみたい。
考えてみたら、本来はこういうイベントがあってこそレジェンズ世界に来た甲斐があるってもんだよね。今のあたしの状況は、色々全然期待とは違うことになってるけど、そういうことが、どうでもよくなる。
座った下に感じるシロンさんの体は、もこもこしていて温かい。そしてまだ湿っている。

「俺らも入りますかね、どうせなら」
「お、いいねえ」
「そいじゃあ、ワシも…」
部長とJJさんとパーキンス氏が、仲良く手前の川岸に並んだ。
「なーんだよもう!それなら、俺も入れてよ!」
相変わらず敵味方の空気を読まないシュウが、ひょっこり起き上がってきて、部長たちの間に混ざる。

メグがカメラを構えた。
「はーい、笑ってー」

ぱちり。

よく分からない集合写真になりました。



「愛、なんだな。…」
しみじみとそう呟いたのはマックさんだ。
お母さんのような微笑を浮かべながら、皆の様子を見守っている。
そして付け加えた。
「――それは、こないだのビデオのセリフの、真似なんだな?」

「………、は???」
その場で全員が固まった。

JJさんが顔を見合わせた。
「あー。アメリカンVシネマの?俺、持ってるわ」
「あー。道理で何か、デジャブだと…」

それなら知ってる。
あたしもJJさんに見せてもらった。
言われてみればどこかで見たような感じの展開だったよ。うっかり乗っちゃうダンディーも大概ノリがよすぎるよ。あたしもだけど。
「ちょっと、シロンさん!?もしかしてさっきの全部、単にカッコつけてみてただけなんですか、シロンさん!?あっ」
目を剥いてシロンさんの方を振り返ると、シロンさんは慌てたように視線を逸らし、あたしをつまんで捨てた。


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