第6章−6


爽やかな朝。

「どーしてるかな〜、あのワニ」
「『ワニいうやつがワニじゃあ〜!』って、言ってんじゃなーい?」
「かもな〜。あははー」

シュウ、メグ、マック。いつもの3人が登校してきた。仲良く横に広がって歩きながら、呑気な会話をかわしている。
あたしとダンディーは子供たちを待ち構えて、道の真ん中に立ちはだかった。
「おはようございます、ダークウィズカンパニーのです!こっちはダンディー!」
「おはようございまーす。いっちょ勝負に来ましたー!」

シュウがきょとんとしてあたしを見た。
「おはよー。…どうしてしたっちょ、カッパ着てんの?」
水よけです。

「っていうか。今、『勝負』って言ったのかな」
マックが眉をひそめる。
シュウの背中のカバンがもぞりと動いて、ゆるんだフタの隙間から、ちらりとねずっちょの顔が覗いた。
「…ガガ?」
「ああ。もう話し合いはナシだ。大人しくタリスポッドをこっちによこしな。さもないとぉー」
ダンディーが険しい目つきで攻撃の態勢をとった。
両手を胸の前に構え、
「ハァァ…ァァァァ…」
攻撃を溜め始める。
あたしはシュウをじっと見つめながら告げた。
「――シロンさんのリボーンをお願いします」

ダンディーが攻撃を溜める。溜める。
本来必要な以上の時間をかけて、充分に溜める。
「ハァ!」
ざぶーん。
しばらくして水柱が立った頃には、シュウたちはとっくに踵を返してその場から逃げ出していた。
「タメが長ぇんだよ〜〜!!」
からかうようなシュウの声が遠ざかっていく。

最高の状況を整えるための誘導は、もう始まっている。
逃げて行くシュウたちの鼻先で間髪入れずにもう一本の水柱が吹き上がり、行く手を塞いだ。
「ひょえー!?」
慌てて急ブレーキ。
「逃がすかぁ〜〜!!」
ダンディーはドスの利いた声を出しながら、溜めの余力で続けざまに数発、シュウたちを脅かす。狙いを定めたものが外れたと見せかけて、シュウたちの鼻先。それから、背後や斜めに2,3発。ドシュドシュ派手な音を立てて、子供たちの足元の地面から水が吹き上がる。
シュウたちはうろたえているようだ。ぶんぶん頭を振って周囲を見回し、とりあえず目の前にある曲がり角を折れて、イーストリバー方面へと逃げ込んで行った。
あたしとダンディーは、静かにそれを見送り、頷き合った。――計画通り。
「…キックボードは、持ってなかったな」
「うん。じゃ、そっち用のルートで行くね」

部長たちの車がやってきて、あたしたちの横に止まった。
「では、パーキンス博士!よろしくお願いします!」

「あいや、分かった!」
後部座席のドアががらっと開いて、いかめしい表情の白衣の老人が降りてきた。
ソフトウェア開発部のパーキンス氏だ。手には携帯サイズのモニターを持っている。
「ワシが密かに開発したカニ探索ソフト、『ファインディング・カニ』。今回はスキャン設定を反転させ、ニューヨークに存在するカニ以外の全生命体を〜」
「はい、ちょいと失礼〜」
そのパーキンス氏を、ダンディーががしっと小脇に抱えて持った。
「おぉう!?」
「すみません、博士。イーストリバーの手前で下ろしますから」
「あいや、任せなさーい!」
博士はいかめしい顔をしたままダンディーの小脇に抱えられ、足をぶらぶらさせている。珍妙な組み合わせだけど、セット完了。
「じゃ、後はよろしく!」
「ラジャー!」
パーキンス博士を抱えたダンディーは、重い足音を立ててビルからビルへと飛び移って消えていった。

後は、ダンディーの攻撃準備が終わるまで時間稼ぎだ。
車の中の部長が、顎を振ってあたしを促す。あたしはそれに頷いてから、走ってシュウたちの後を追った。


「嫌だ、追いかけてきてるわよー!?」
メグの悲鳴が聞こえる。
走る子供たちの後を追うようにびしびしと路面に亀裂が入り、そこから水が吹き上がる。
まるでダンディーが子供たちを後ろから追いかけ、攻撃し、狙いを定め損ねているかのように。…子供たちからは、そう思われていることだろう。
本当はこれは、今別の方向に迂回しているダンディーが、ニューヨーク市のインフラを利用して水芸をしてるだけ。消火栓の水を噴き上げたり、水道管を破裂させたり。見た目や音は派手だけど、攻撃力は特にない。
「あーもう!いいじゃんもう!勘弁してよ〜!!」
「ダメなんだな、シュウ!タリスポッドを渡したら、ダーメなんだな!」

吹き上がり、飛び散って視界を遮る水。水飛沫の音、ドカドカ派手な破裂音。
実際にはあたし一人が走ってシュウたちを追っかけているだけなんだけど、迫力は満点だ。
時々道を逸れそうになるときは、行く手を邪魔するように、その目の前で水柱が立ったりもする。急いで到着しすぎないよう足を引っ張り、想定通りのルートに追い込む。
あたしたちは住宅街を走り、ビルの横を走り、高架下を走った。

水芸のタイミングが合うのは、パーキンス博士がシュウの位置をモニターしてくれているおかげだ。使っているのがカニ特化のソフトなので正確さには欠けるが、元々攻撃を当てることが目的ではないのでちょっと狙いが逸れるくらいでちょうどいい。

振り返っても吹き上がる水で視界が遮られ、子供たちからは後ろの様子は見えないだろう。
あくまでも後方からの追跡であることをアピールするために、あたしは声を張り上げる。
「待ってー!!」
遠くの方で、メグがあたしに怒鳴り返した。
「待てって言われて待つわけないでしょー!!」
「でも、待ってー!!」
待つわけないのはもちろん分かってます。これは、走らせるために言っている。


あと半ブロックでイーストリバー。予定通りの経過時間。
ここでシュウにはシロンさんをリボーンしてもらう。そのために、駄目押しのプレッシャーをかける。
子供たちの危機感を煽る迫力が必要とされる役目だ。適任なのはもちろんこの人、DWCの黒いバンがワイパーをガチャガチャ言わせながら走ってきて、あたしを追い抜き、シュウたちの横に並んだ。
部長がバンの窓から顔を出して叫んだ。
「おほほほほ!さあ、タリスポッドを渡しなさ〜〜い!?」
同時にJ2さんがハンドルを切って、子供たちの方へ大きく幅寄せする。

「シュウ、早くシロンをリボーンしなさいったら!」
「リボーンなんだな、シュウ!!」
「あう、うう、うぇっ!?」
シュウがタリスポッドを掲げた。
「シロン、カムバーック!リボーン!!」

辺りにどしゃどしゃ降る水を吹き飛ばしながらシロンさんが現れた。
「何だよこれは。…攻撃されてんのか?何か、雰囲気おかしいぞ、…――」
シロンさんが鋭い目でこっちを振り返りかける。
何を確認する暇もなく、そこで道はイーストリバーに行き着く。建物が切れ、視界が開ける。

イーストリバーと呼ばれてはいるが、ここは川ではなく、マンハッタンとロングアイランドを隔てニューヨーク湾へと続く海峡なのだ。と、前にダンディーが言っていた。
向こう岸まで数百メートル。普段はブルックリンブリッジを左手に、満々と水をたたえた水面の向こうにマンハッタンの摩天楼を望む、とても眺めのいい場所で――
部長たちの車が、耳障りなブレーキ音を立てながら急停止する。

今は、異様な光景が広がっていた。

子供たちが悲鳴を上げてのけぞり、立ちすくんだ。シロンさんが絶句する。
「おいおいおい。何だよ、こりゃあ!?」

イーストリバーがなくなっていた。
干上がっている。何百メートルの幅、こちらの岸から向こう岸まで。
すっかり中身がなくなって、水位が引いて、辺りは見渡す限り浅い水たまりと泥の地面だ。泥まみれになった魚が、そこかしこでぴちぴち跳ねている。
「うわあ、すごっ……」
あらかじめ作戦を知っていたあたしでさえ、想像を超えたスケールの光景に一瞬その場で固まった。呆然とするあたしたちの周りで、役目を終えた威嚇用の水が静かに勢いを失い、ちょろちょろと漏れ出る流れになって引いていった。


――ダンディーが「攻撃を溜めた」のだ。イーストリバーの水という水を集めて。
そして、集めたその水は。

即座にあたしは上流を振り仰いだ。
あたしの様子に気づいたメグがつられたようにあたしの視線の先を辿り、悲鳴を上げた。
「見て、アレ!!」

干上がった川底の向こうで、不自然な形に固まり、盛り上がっているもの。
ぐんぐん近づいてくる。
水が、向こうの景色も見えないくらいの高さの壁になって、押し寄せてくる。
「つっ…津波なんだな!!津波が来るんだなっ!!」
「うぇえええええ!?何でー!?どーしてぇーーー!?」

津波のてっぺんに、どっかり胡坐をかいている緑のワニ影が見えた。
「シロォーーーーーーン!!勝負だあああああああ!!!」

「チッ!お前ら、下がってろ!」
シロンさんが焦ったように地面を蹴って、まんまとイーストリバー上に飛び出した。

シロンさんが小さく見えるほどのスケールで、水の壁が迫る。
飛び出してから今の位置では高さが足りないと気がついたのか、シロンさんは体をそらし、翼をいっぱいに広げながら上方へ飛び上がろうとした。
多分、それでは間に合わない。シロンさんの目の前で、水はダンディーをてっぺんに乗せたまま、さらに寄り集まってみるみる高く持ち上がる。
生き物のように鎌首をもたげる。
そのまま、シロンさんめがけて、一気に打ち下ろされた。

爆弾が直撃したみたいな音がして、地面が揺れた。
子供たちがよろめきながら通りの奥に逃げていく。
イーストリバーに水がなだれ込む。
風が水を切り裂く。
シロンさんにぶつかってはじけた水の塊が飛び散って、細かな粒子は真っ白な水煙になって辺りを埋め尽くし、あたしたちのいる場所までをも飲み込んだ。一面の霧の中、大粒の水滴がばたばたとどの方向からも分からないくらいめちゃくちゃに降り注ぐ。
あたしはへろへろしながら子供たちの後を追って後退し、手近な標識につかまって体を支えた。

これが、ダンディーの「思い切り殴りつける」か。
想像以上に、半端ない。
せっかくカッパを着てきたのに、結局全身ずぶ濡れになってしまったので、あんまり意味がなかったような気がします。
あたしは役に立たなくなったフードを外して、息をつく。ちょっと視界が広がった。それから、水煙の向こうに目を凝らした。

シロンさんがいる。残念なことに、やられてはいない。
「はぁ、はぁ…。い、いきなり何てことしやがんだ…。お前、俺とは戦わないんじゃなかったのか?」
羽を縮め、体を丸めて、あの攻撃に耐え切ったようだ。

いつの間に合流していたのか、あたしの横でパーキンス博士が落胆の声を上げた。
「ぬおぉ、しのぎきったかあーーー!?」
「いえ、まだです!」
間髪入れずにあたしが訂正する。何だ、この解説コンビみたいな会話。

――何をするにも、前提としてシロンをここまで引っ張り出さにゃならねえ。
作戦を立てるとき、ダンディーはあたしに言っていた。

イーストリバーの水さえあれば、シロンの『風』は。
『波』になる。

ウィングトルネードでだって全部は吹き飛ばせない。イーストリバーの圧倒的な水量が、ダンディーの味方だ。
シロンさんが風を起こして降りかかる水をはねのける。そのたびに水は、風に吹かれて前よりもうねりを増して渦を巻く。

荒れる波の向こうに見え隠れするダンディーは、いつの間にかしょっていたローラーボードを外していて、その上に立っていた。あれはローラーボードじゃなくて、サーフボードだったのか。
上流からなだれ込んでくる、水の勢い。シロンさんの風を受けて揺れる、水の勢い。サーフボードに乗ったダンディーは、生き物のように暴れ回る波の上を鋭い動きで突っ切っていく。ぐぐっと水面が盛り上がる。

そのままダンディーは、波と一緒になってシロンさんに体当たりした。
攻撃、第2波。
「ヒィヤーーーーホーーーー!!」

今度こそ効いた。
シロンさんは水に押されて大きくバランスを崩し、すごい距離後ろに吹っ飛んだ。
それでも踏みとどまる。
体の回りギリギリに風をまとっているのが見える。


部長が車の中から窓ガラスを叩いてあたしを呼んだ。
「びしょ濡れじゃないの、。中に入ったらどう?」
「いえ、あたしは大丈夫です。…そうだ、忘れてた」

バンの後部座席から傘とタオルを取ってきて、シュウたちに差し出す。
「これ、どうぞ。危ないから離れていてください」
言いながら、あたしはちょっと頭を下げた。
やっつけたいのはあくまでもシロンさんであって、本当はあまりシュウたちに迷惑をかけたくなかった。まだ子供なんだし。濡らしてしまって申し訳ないことをした。

濡れた頭を拭きながら、メグが口を尖らせる。
「何でいきなりこんな…、シリアスな展開なのよ。びっくりするじゃないの。ワニなのに」
あたしはイーストリバーを睨みながら答えた。
「…ワニでも。たまには。そんなことだってあります。絶対に負けられない戦いが、そこにはある。のです」
「分かるよ分かるよ!」
意外なことに、はしゃいだ声で賛同の返事があった。
シュウだった。嬉しそうに首を振って、しきりに頷いている。
「うんうんうん!い〜じゃんい〜じゃん、こういうの!く〜っ、盛り上がってきたなあぁ!!」
「…………」
いつでもどこでもそうであるように、こんなときでも、シュウはシュウだけの空気の中に生きているのだった。
本当に分かってるのかなあ。勝負の行方に気を取られ、あたしはそれには返事をしなかった。

まだ決着がつかない。
シロンさんはなおも踏みとどまり続け、攻撃する水と、それを押し返そうとする風はじりじり拮抗し始めている。
焦る気持ちがこみ上げてくる。シュウたちには離れてくださいと言ったくせに、当の自分はじっとしていられなくなって、あたしは吸い寄せられるように川岸に近づいた。
…まずいな。
これ、逆転されるときのパターンになってきてるような気がする。

正面から攻撃をぶつけ合ったら、いずれはこっちが押し負ける。
ダンディーも分かってはいるのだろうが、地の利を生かした事前のタメは2回の津波で底を付き、シロンさんの風を打ち破るだけのパワーのある攻撃を繰り出すことができないでいる。
ぶつける水の勢いを少しでも弱めてしまえば、その一瞬でシロンさんは攻勢に転じるだろう。そうさせないためには攻撃の手を緩めずに全力で今の状態を維持し続けるしかなく、シロンさんの動きを封じるだけで精一杯で、ダンディーの方も身動きが取れない。
状況はじりじりと不利になっていく。


敵わない、最初から決まっている、格の差。
そんな言葉が頭に浮かんだ。
やっぱり、ダンディーの言ったことの方が正しかったんだろうか。努力では超えられないんだろうか。
だけど、あたしは――
その時、あたしの後ろでシュウの場違いに能天気な声がした。
「うひょー、ほんとすっげーなあぁ!」

攻防が長引いている。そのことに焦るあたしとは反対に、シュウの方はいよいよテンションが上がってきたらしかった。軽い足取りであたしの横を通り過ぎ、少しでも近くで見たいのか、いそいそと川べりの階段を駆け下りる。
「シュウ!?待って、何を――」
「すっげーよなあ、これってさあ、男と男の戦いだよなあ!!」
興奮してシロンさんに呼びかけながら前のめりになる。濡れた地面で足を滑らせ、ふらりとバランスを崩す。
そこで運悪く目の前の水面がうねった。
シロンさんの風とダンディーの水がぶつかり合って荒れ狂う戦場の、そのとばっちりみたいな、ほんの端っこの方の余波。けれどその高さと勢いはシュウの小さな体をすっぽり飲み込むには充分だった。

次の瞬間、悲鳴を上げる暇さえなく、シュウの姿は波に飲まれて消えた。
ちょんまげ頭が木の葉のようにくるくるしながら流されていくのが見えた。

「ダンディー、たんまああああああああ!!」
「あああああん!?」
ダンディーがまだ状況を把握しきらないうちに、シロンさんがいきなり風の防御を解いた。シュウめがけて突っ込む。
押し合っていた風が消え、水は鋭い勢いで一気にシロンさんに襲い掛かる。

怒涛の波がシロンさんの体めがけて打ちつけ、水面に打ちつけ、それがさらにまた次の波を呼んだ。イーストリバーは一面真っ白に泡立って揺れ、しぶきが飛ぶからあたしの立っている岸辺にまでバケツをひっくり返したみたいに水が降る。

それで、全てが押し流された。


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