第5章−9


アンナちゃんは朝一でオフィスにやってきて簡潔な伝言を残していったので、あたしから部長に説明する必要は別になかった。そして、あたしのささやかな裏切りが明るみに出ることもなかった。

ほっとした。そして、こんなことでほっとする自分が情けなくもあった。
結局、なるようにしかならないんだ。
前から知っていたキャラに意地悪するのは辛いけど、この状況を変えられるほどあたしはいい人間じゃない。一応たしなみ程度にスピリチャルな良心や親切心は持ってるつもりだけど、基本的にはその場しのぎの沢山のどうでもいい感情であたしは構成されていて、つまり、あたしは駄目なやつなんだ。
もう諦めて大人しくしてよう。
「…………、……」
そんなことをぼんやり考えながら、あたしは紙袋の端っこを丸めてよってみたり、ちょっとちぎってみたりしている。
昨日アンナちゃんに渡せなかった荷物。置き所がなくて持ってきてしまった。
置き所がない。
色々。

「今日はぼーっとしてる場合じゃないわよ、!今から全員!ブルックリンブリッジ公園に向かうわよ!」
いまいち気分が晴れないあたしをよそに、BB部長は絶好調だ。手の甲を口に当てながら悪役チックな怪しい高笑いを決める。
「ホホホホホ!随分長いこと待たせてくれたじゃないの。と〜うとう決着をつけるときが来たようね…」

「部長…部長があのハーピーと決着つけるわけじゃないですよ」
「っていうか、結局交渉でも色仕掛けでもないのね」
部長の左右からいつものようにJJさんが突っ込む。任務の長さに、若干気だるそう。

「見てらっしゃい、あのトリ。もしも失敗するようだったらその時は――」
部長がにやりと笑ってダンディーを見やった。
「――あなたに働いてもらうわよ、ダンディー」

その提案にあたしはぎょっとしたけれど、ダンディーにとっては特に驚くことではなかったようだ。
気さくなワニは全くいつもと変わらずに、軽い調子で頷いた。
「あいよ。その時は、任せときなー」




――イーストリバーを風が流れる。

ここはマンハッタンとブルックリンを繋ぐブルックリンブリッジ。そのブルックリン側の岸の、橋げたのふもと。
水辺に沿ってゆったりとした遊歩道が広がり、所々には川岸の景色を臨むベンチが置かれている。
この公園は、ブルックリン側からマンハッタンの摩天楼が一望できる観光名所なんだ。と、ダンディーが前に雑誌を見て言っていた。

午後3時。
ベンチの背もたれにちょっと手を掛け、絵ハガキになりそうな眺めを背景に、アンナちゃんは固い表情で立っている。

そのアンナちゃんを取り囲むように、全員、さりげなくばらけて待機する。
J1さんがホウキで辺りを掃いている。イーストリバーに浮かんだ小船の上で、J2さんが釣り糸を垂れている。部長はブルックリンブリッジに上って、アンナちゃんを見下ろす位置に陣取った。
あたしはダンディーと、ベンチ裏の木陰に隠れる。


しばらく経った頃、約束通りにシュウの姿が現れた。両手をくにゃくにゃさせながら、陽気な足取りで歩いてくる。
「アーンナちゅあ〜ん。待った〜?」
「…来たね、シュウ」


二人の様子を見守りながら、その場の4人が一斉に息を詰めた。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」

4人。
ダンディーと2人で隠れていたはずなのに、いつの間にか4人になってる。狭い。
ダンディーが不審そうな視線をちらちらこっちに投げてくる。あたしにもどうしてこんな状況になっているのかさっぱり分からない。
居心地の悪さに変な汗が出てきた。
「あのぉ…それでですね…」
我慢できなくなって、あたしはそろそろと顔を横に向けて聞いた。
「なぜ、メグちゃんがこちらにいらっしゃる…のでしょうか…?」

あたしの隣にはなぜか、当然のようにメグがしゃがみこんでいて、あたしたち以上に熱心にアンナちゃんたちの様子を伺っている。メグの横にはマックまでいる。
昨日の今日だけに、とても気まずかった。
「ははは。お邪魔してるんだな〜」
マックが笑った。
「何よ。あたしがいちゃ悪い?」
メグは唇を尖らせながらあたしの方に向き直り、そしてあたしの向こう側にいるダンディーに気付いてのけぞった。
「って嫌だ、ワニ!?ワニがいるわよ!?」
「ああああん!?ワニ言うやつがワニじゃあぁーーーー!!」
「や、止めてよダンディー!こんなときに!」


シュウが不思議そうにちょっとこっちを見た。
「何だぁ?向こうの方、何か騒がしいな」

「……。ああ。アタシを監視してるのさ」
そう言うと、アンナちゃんは静かに大人の姿に戻った。
シュウが目を丸くする。
「おわっ。アンナちゅわん…って、ほんとにアンナちゃん!?」
「うん。アタシ、元々はこういう姿なんだよ」

「うっひょ〜、なんかアダルティ〜!」
シュウはにこにこしながらアンナちゃんの羽先をとって、手を握る。
「すっげーなあ!おめー、鳥みたいなヤツかと思ったらほんとに鳥なんだなあ!この羽、飛べんの?」
警戒心ゼロ。目をキラキラさせて珍しがる様子は、無邪気そのものだ。
遠目で見ているあたしたちにも分かる、アンナちゃんの緊張した表情。張りつめた雰囲気。全てがシュウにはまるで届いていないようだった。シュウはいつでも、一人だけ軽い風の中にいる。

アンナちゃんが当惑したように一歩後ろに下がった。
「シュウ、…メグから何も聞いてないの?」
「もちろん聞いたさ!ここでアンナちゅあんが〜、俺を待ってるって〜」
シュウはにやついた顔になった。
「もしかしてさ〜、これってデート!?デートの呼び出し〜!?」


「ンガガガ」
憤慨したような鳴き声が聞こえて、そっちを見ると、マックさんの肩に止まったねずっちょが歯ぎしりしているところだった。まあ、気持ちは分かる。あたしもちょっと今ずっこけそうになった。
風のサーガは、不思議な子供だ。
その明るくも能天気な言葉は、時に、聞く者全てを脱力させる。

あたしは再び、そろそろと顔を横に向けて聞く。
「あのぉ。メグちゃん…」
「何よ」
「シュウに…何も言わなかったの?」
メグはあたしの方を振り返りもしないまま、不機嫌そうに頬をふくらませて答えた。
「だって。言わないでくれって、あなたが頼んだんじゃない」
「そ、それはそうですが」
頼みはしたけれど、聞いてもらえるとは思ってなかった。
どうして黙っててくれたんだろう。
何て言ったらいいのか分からなくなって、あたしはしばらくうろうろと視線をさまよわせる。
「…ありがとう、メグちゃん」
「言っとくけどね、シュウに変な真似するようだったら許さないんだからね!」


アンナちゃんはシュウを見つめながら静かに首を振った。
「違うの、シュウ。アタシはアンタに嘘をついてた。本当はアタシ、ダークウィズカンパニーのレジェンズなんだ」
「ダークウィズカンパニー…」
シュウは驚いたようにアンナちゃんの言葉を繰り返し、
「って、何だっけ?」
首を傾げて尋ねた。
未だに覚えていないらしい。どこまでもマイペースだ。
「ええと…要するにさ、アンタの持ってる白いタリスポッドを奪いに来たんだよ」

「ああ〜、あれかぁ!」
シュウが笑って手を打った。ごそごそとベルトの後ろを探って、吊るしてあったタリスポッドを取り出す。
「な〜んだ、それなら早く言ってくれたらよかったのに!あげるよあげるよこんなもん〜」
あっさりとアンナちゃんに差し出した。
ノリにつられて、アンナちゃんがそれを受け取る。


直後に軽い水音がした。
ボートで釣りをするフリをしていたJ2さんが、手を滑らせて釣竿を川に落っことしてしまったのだった。よほど驚いたのだろう。拾い上げようとしてバタバタしている。

…手に入ってしまった。
今まで色々苦労してきたのに、割とあっさりと。


「シュ、シュウ!でも、いいの!?」
もらったアンナちゃんの方が焦ってシュウに詰め寄った。
シュウは相変わらず緊張感のない顔で笑っている。
「いいのいいの、父さんがくれたから元々タダみたいなもんだし〜。俺にはそんなに要るもんじゃないし〜。…あ、でもそれ、変なねずっちょついてくっけどそれでもいいの?」


「ンガゴッ!?」
ねずっちょが驚愕のあまり声を上げる、途中で喉を詰まらせてむせている。
「シロン、落ち着くんだな。どうどう、なんだな」
それをマックがなだめている。

「こんなもん…。今、こんなもんって言ったよ。相変わらずノリ軽いなあ…」
「ほんとだよ。あれなら最初っから普通に頼んでりゃよかったじゃん…」
「そもそもアンタたち、何であんなもんがそんなに欲しいのよ…?」
あたしとダンディーとメグは、シュウたちの様子を見守りながらぼそぼそと会話する。


「シュウ…。アタシが騙してたこと、怒らないの?」
「なんで〜?」
アンナちゃんの正体のこともタリスポッドのやり取りのことも、シュウはほとんど気に留めていない様子だ。ふと、何かを見つけて川の向こうを指差した。
「見ろよ、渡り鳥!」

シュウがぱたぱたと川岸にかけていく。
慌てたようにアンナちゃんがその後を追う。二人は川岸に並んで立って、空を見上げた。

「鳥っていいよなあ〜。自由でさ〜、楽しそうでさ〜」
シュウは屈託なくアンナちゃんに笑いかける。
「おめーも飛べる?あんな風に?」
「飛べるけど…飛べると、そんなに自由に見える?」
アンナちゃんが不思議そうに尋ねた。
両手を広げて、シュウが答える。
「そりゃそうだろ〜!この青ーい空をどこまでーも飛んでって、風になれるんだぜー。最高じゃん!」

シュウと、いっぱいに広げられたシュウの手の先にある空を眺めながら、アンナちゃんはひどく眩しそうにした。
「そうかなあ。…最高、なのかなあ」
それから小さく溜息をついて、柵にもたれる。
「アタシはずっと…閉じ込められてた。やっと出られた場所にもアタシの自由はなくて…それでも、一生石に閉じ込められるよりはマシなはずだと思ったんだ。リボーンされついでにこの仕事を終わらせて、その後は多分、風の生き物だから、ただ風になって。…」
イーストリバーの先を見つめながら、ぽつぽつと途切れがちに、アンナちゃんは語った。表情はここからはよく見えない。
「風は、風に。それでいいんだと思ってた。…持ってるものが、運命以外に何もなくても」
シュウが怪訝な顔になった。
「アンナ…?」

イーストリバーを風が流れる。風に吹かれて、雲も流れる。
絵葉書のような景色を背景に、風に乗った鳥の群れもまた滑るように水面の上を流れていく。

しばらく飛んでいく鳥を見送った後、アンナちゃんは首を振って笑った。
「…やっぱりいいや。これは返すよ、シュウ」

「え?いらないの?」
「うん。アタシはシュウに会えたから、前とは違うアタシになった。自分だけの望みがある生き物になれるんだって、分かったよ。だからこれは、いらない」
アンナちゃんはシュウの両手を羽で包みこむようにして、タリスポッドを握らせる。
「これはきっと、シュウが持ってた方がいい物なんだ。…」

「ええ〜…そうなの〜?」
話の展開が良く分かっていないらしい。シュウは腑に落ちない顔でしきりに首をかしげている。


ダンディーがあたしの脇をつついた。
「おいおい、返しちゃったよ。…いいの?」
「だ、ダメだと思うよ…」
結局アンナちゃんは、自分のやりたいようにやったんだ。あたしはレジェンズではないのでレジェンズの気持ちは良く分からないけど、でもきっと、そういうことなんだと思う。
シュウに本当のことを言い終わって、アンナちゃんは穏やかに笑っている。

アンナちゃんがシュウの手を静かに放したそのとき、
「オホッホホホホホホ!!」
待ち構えていたかのように辺りをつんざく高笑いが響き渡った。

BB部長だ。
任務が失敗したと言うのに、なぜか勝ち誇ったような表情だった。


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