第4章−9


「ええーい!何なの何なの、この状況は!」
部長が歯ぎしりした。
「そこのカニ!何がしたいか知らないけど!仕事は仕事、きっちりやってもらうわよ!!さあ、その白でっかいのをちゃっちゃとやっつけちゃいなさい!!」
「…………」
ジャイアントクラブさんが身じろぎした。
シロンさんは今、ジャイアントクラブさんをかばうように立っている。攻撃すれば背後を取れる。絶好の立ち位置だ。

しかし、かばってくれてる相手を後ろから攻撃するというのは、人としてちょっと外道すぎないだろうか。
部長は全然気にしてないみたいだけど、ジャイアントクラブさんはそこまで思考が能天気にできていないのか、攻撃をためらっているようだった。ぷくぷくと泡を吹きながら、その場に固まってしまう。

「さあっ!!」
部長が指をさしながら叫び、ジャイアントクラブさんの心の天秤は、
カーニー !」
ガキン!!
ついに、悪の方に振れた。
巨大なハサミが繰り出された。
「おおっと!」
シロンさんの長い首が動いて、それを避ける。
白い翼が大きく羽ばたき、シロンさんは体を反転させてカニさんへ向き直ったが、体勢を立て直す余裕もなくジャイアントクラブさんの猛攻撃が始まった。
「何だよ。やる気か?」
カーニーカーニー !」
ジャイアントクラブさんがシロンさんめがけて、巨大なハサミを突き立てるように次々と繰り出していく。
迷いを吹っ切ってからの攻撃は目を見張るほど鋭く、力強い。動きが速いし、今回は体格負けもしてない。
シロンさんはカニさんの攻撃をぎりぎりのところでかわしながら、その勢いに時折よろめく。そのたびにじりじりと後退していく。

部長が拳を握った。
「おお。…もしかしてこっちが押してる!?」
「さすがは、でっかいレジェンズ…」
「戦うまでに散々苦労した甲斐がありましたね、部長…」

あたしたちがちょっとしみじみしかけたとき、シロンさんの手が攻撃に追いつき、がしっとハサミの先を掴んだ。
そのまま抱え込んで、ジャイアントクラブさんのハサミの動きを封じる。
カーニー !」
カニさんがもがいて抵抗するが、シロンさんはカニさんの腕をがっちり押さえ込みながら、尻尾と足を踏ん張った。羽が広がり、茶色い飛行帽の頭がぐぐっと下がって、多分、重心を移動させる前のバネをためてる。
「あ…ダメだ、やばいかも…」
あたしが思わず呟いたとき
「うりゃあああああああああ!!!」

抱え込まれた腕を起点にカニさんの体が宙に浮き、ぐるんとひっくり返り、シロンさんはそれをそのまま放り投げた。
ドラゴンの背負い投げだ。初めて見た。
ぐわっ。
一瞬陽がさえぎられて視界が暗くなる。見上げる頭上を、投げ飛ばされた巨大なカニが腹を見せながらすっ飛んでいく。

数秒経って、水音が聞こえた。



「たいへーん!!」
通りの向こうまで飛んでいったようだ。あの水音はきっと、イーストリバーに落ちたに違いない。
ジャイアントクラブさんを追いかけて、あたしたちは慌てて走った。

イーストリバーの岸辺に出ると、そこには向こう岸の見えない一面の水平線が広がっていた。
カニさんを追いかけているうちに、マンハッタン島が対岸に見えないくらい南の方まで来ていたらしい。
遠くの水面に、巨大なハサミがぷかりと浮かび上がるのが見えた。
「良かった!生きてた!」
部長が口に丸く手を当てて叫んだ。
「よし、無事なら反撃よー!戻ってこーい!」
「…………」
「おーい!…聞こえてるー?」
「…………」
ジャイアントクラブさんがハサミを振った。
アリガトー

ありがとう?

あたしたちは川べりの柵に並んで身を乗り出したまま、首をひねる。
「…何で、お礼言ってるんでしょ」
「さあ…」
「アイツ、カニカニ以外もしゃべれたのかー」

しばらく待ったが、カニさんはいつまで経ってもこっちへ来ない。
何だかどんどん岸から遠ざかっていっているような気がする。
「おかしいな…こっちに来ませんよ」
「っていうか、どんどん泳いで行ってません?足のとこ、動いてる…」

後ろからぱらぱらと足音が近づいてくる。振り返ると、シュウたちもこっちへ走ってくるところだった。
あたしたちの横まで来て、マックさんは足を止める。
水面に浮かぶカニさんを見つけて、ふくよかな顔に穏やかな微笑が浮かんだ。
「よかった…」
シュウとは違う意味で不思議な人だ、マックさん。
まるで全てを見通しているかのような。ちょっとお母さんみたいな。
あたしの怪訝そうな視線に気付いて、マックさんは笑顔で一言、解説してくれた。
「海へ…帰りたかったんだな」
と、マックさんは言った。

「ああ、そういうことみたいだな」
満足そうに相槌を打ったのはシロンさんだ。
もしかして、こうなることを狙って投げ技を使ったのだろうか。長い鼻先を遠くの水面へと向け、目を細める。
シロンさんの鼻の動きにつられて、あたしも水平線の向こうを眺めた。
一陣の爽やかな風が吹く。

「海へ…?」

言われてみれば、ビルの間を流れる風には潮のにおいが混じるのだ。
ここはマンハッタンとブルックリンの間を流れるイーストリバー。対岸が見えないくらい一面に広がる水面。
「南へ下ってヴェラザノ・ナローズの橋を超えれば…」
「ニューヨーク湾、だなあ…その先は、大西洋…」
JJさんが呟いた。
「そ、そうだったんだ…」
午後の太陽を浴びて、水面はきらきら揺れている。
カニさんが泳いでいくあの先に、海があるんだ。

『海へ帰りたい』。もしかしてカニさんはずっと、あたしたちにそう訴えていたのだろうか。やたらとニューヨークの街を暴走したのも、自分の帰る場所を求めてのことだったのだろうか。
…悪いことしたな。
図鑑で見たことがある。シオマネキ。
ハサミを振るあのしぐさが海を呼んでいるように見えるから、あのカニを『潮招き』と呼ぶのだと――

アリガトー …」
波の間で揺れながら、ジャイアントクラブさんがまた手を振った。
子供たちがそれに応えて手を振り返す。
「元気でねー、なんだなー!」
「達者でな〜、カニー!」
「もう戻ってこなくていいわよー!」

皆に見送られながら、カニさんの姿は水平線の彼方へ消えて行った。――海へと。
部長が毒気の抜けた声で言った。
「何なの、これ。何だかちょっと、いい話じゃない…」
「はい…。いい話ですね…」
子供たちと一緒になって手を振っていたJJさんが、そこでふと動きを止めた。
「いやでも、シオマネキじゃないよね。あれ、カニじゃなくてレジェンズだよね」
「会社に何て報告すんですか、部長」

「…………」
「…………」
「…………」
「…………」

あたしたちはしばらく無言で見つめ合った。じわじわ来た。
せっかくでっかいレジェンズだったのに。ソウルドールの紛失って、書類とかどうするんだろ。「本物の」ソウルドールって、金庫から持ち出すだけでも色んな許可のハンコが要る、DWCのトップシークレットなんだって。聞いたけど。

部長が鬼の形相になった。柵に飛びつくようにして川へ身を乗り出す。
「カムバーック、ジャイアントクラブ!カムバーック!!」
ウィーン、ガシャン。ウィーン、ガシャン。
部長がいくら叫んでも、タリスポッドはスカスカ空回りするばかりだ。起動の機械音だけが空しく響く。
「きょ…距離が遠いと、無効なんですかねー?さっきあたしもそうだった、ははは…」
「笑ってる場合なの、!?」
フォローの言葉を考えたつもりなのに、逆に部長に怒られる。なぜかリチャードさんまで割って入ってきた。
「ちっ、逃げやがったか!よし、ここは今度こそ俺に…」
「まだいたんですか、リチャードさん!?」

グダグダ揉めていたら、ふとひときわ強い風が流れて、髪が揺れた。
あたしたちを見下ろしながら、シロンさんが白い翼をいっぱいに広げているところだった。
「あー。それにしても、いーい風だなー…」
「!!」
あたしたちは一斉に川べりの柵に捕まる。二度ほどやられて学習済みだ。
このパターンはまさか、ウィングトルネード。

…だが、想像していたようなことは何も起こらなかった。
シロンさんはあたしたちを面白そうに眺めた後、顔を上げて気持ちよさそうに目をつぶる。
大きな翼が羽ばたくたびに巨大な体が浮き上がり、次第に上昇の勢いを増す。シロンさんはそのまま風に体を躍らせ、宙へと舞い上がった。
そのまま遠ざかっていく。

「…あれ?」
「飛んでっちゃったよ…何で?」
「さあ…」
何もされなかった。
それもそうか。シロンさんにぶつけるレジェンズがもういないのだから、戦いもおしまいだ。

拍子抜けして空を見上げる。
「戦い以外のときでも飛ぶんですねえ、あの人…」
「そりゃそうだろうよ。でも確かに、初めて見たな…」
すごく綺麗だ。

にこにこしながらマックが言った。
「水は水に。風は、風に。なんだな。シュウもそう思うんだな?」
「え?ああうん、そうですね…?」
勝手に飛んで行ってしまったシロンさんを見上げ、シュウは何だか腑に落ちない顔をしている。そう言えば前回も今回も、自発的ってよりマックさんに言われてリボーンしてるよね。レジェンズとサーガって、そんなもんなんだろうか。
「…写真撮っとこ」
メグが呟いて、黄色いカメラでぱちりとシャッターを切った。

大きくて真っ白な姿が優雅にビル群の上を飛んでいく。
広げた翼が風を切る。時折たわんでふわりと浮かび、バランスを取る長い尻尾が楽しげに揺れる。
きっとシロンさんはここに吹く風が好きなのだろう。飛んでいる姿を見ていたら、そう思った。水のレジェンズが海へ帰りたいみたいに。


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