第13章−9


ランシーンさんがいないときくらい電気をつければいいのに、今日もやっぱり薄暗い、ダークウィズカンパニー社長室。

「来たね、くん」
「おはようございます、社長。社長のお家に、要らない布団やマットレスはありませんか?」
「…………」
「できるだけおっきいのがいいな。あったら、安く譲って欲しいんですけど」
「…………」
「……。えっと、もちろん、仕事をしに来ました!本日はどのような御用件でしょうか」

「はー。若いって、いいよね…」
社長はやつれた表情で呟いた。
くん、君さあ…悩みとか、何にもないんじゃないのかね…」
「それは何て言うか、あたしに対してだいぶ失礼じゃないですかね…?」
およそ世界のあれこれにあたしがどんだけ悩んでいるか、社長に教えてあげたいよ。

社長はデスクに肘を突き、顔の前で両手を組んでいる。丸い額にはつぶつぶと汗が浮かび、ほとんど影になった顔の中で、金色の大きな目だけが不安にぎらぎら光っている。
「実は、ここ数日」
歯を食いしばるようにしながら、社長は悲痛な声を漏らした。
「ランシーンさまから連絡がない…」

「えーっ。それ昨日も聞きましたよ。またそこからなの!?」
「そうだよ、だって!あれから電話もつながらない!!」
「あー…明らか壊れた音がしてましたからね、あのとき」
「君は、それを、一体!!誰のせいだと思ってるのかね!?」

ランシーンさんが壊したんだから、ランシーンさんのせいだよね。普通に。
でも、あたしが直して来いってさ。




エレベーターで上階に上り、足元を照らしながら岩のトンネルを歩いた。
通り抜けていく風がごうごうわんわんと耳に響く。
あたしが進んでいくにつれ、ごうごうとした低い響きは遠ざかり、風は、次第にはっきりとした音になる。
翼が羽ばたく音に似ている。回り続ける巨大な羽が、空気を切り裂く音。
ばさっ。
ばさっ。
遠くに、丸い窓の光が見えてくる。
「おはようございます、ランシーンさん。お邪魔します」
「…………」
ばさっ。
ばさっ。
挨拶しても、影は少しも変わらずうずくまったままだ。目だけがじろりとあたしを見下ろして、口はほとんど動かさないまま、低い唸り声がした。
「…呼んでない…」
「ええ。でも、壊したでしょ、電話」

「…………」
ランシーンさんは視線を前に戻して、歯ぎしりした。
あたしは肩をすくめる。特に異存はないということのようだ。

調べてみると大元のケーブルに破損はなくて、工事の手配をする必要はなさそうだった。
砕けた電話機と食いちぎられたコードをこの場で取り替えれば終わり。あたし一人で直せそう。
「うーん、手元が暗いや…ここ、電気はついてないんですか?」
「…ない」
「ちぇーっ」
懐中電灯の灯りしかないと、微妙に作業が不便だ。脇ではさんでみたりしながらがちゃがちゃやっていると、ランシーンさんの大きな手が背後から迫ってきて、一言も発しないまま、あたしの懐中電灯を爪先でつまんで奪い取った。
照らしてくれる。
びっくりして、危うく肝心の電話を取り落とすところだった。

「……。ありがとうございます」
「どういたしまして」

どうしたんだろう。ランシーンさんが親切だ。
一体何があったのか――って、起こったことといえばアレか。あたしは手を止めてランシーンさんを振り返った。
「ランシーンさん。…この前、植物園で」
言いかけてたら、ランシーンさんはいきなり手を動かして懐中電灯をあたしの顔に向けた。
光がまともに目に入り、あたしは手で顔を覆って抗議した。
「うぉ、まぶし…!明かりを顔に向けないでくださいよ!」
ランシーンさんが唸った。
「……。見えない」
「?」
「見えない…――」

あたしは顔の前に手をかざしながらしばらく黙っていた。
ランシーンさんはそれきり、何も言わない。懐中電灯はあたしの顔に向けっぱなしだ。次のリアクションを待っていたら、その体勢のまま物思いに沈み始めた風だったので、あたしはランシーンさんを遮った。
「人に向けて遊ぶんだったら、返してください」

言われて、ランシーンさんは明かりの向きを変えた。
手元が明るくなったので、あたしは電話機の箱を開けて説明書を読み始めた。

「――植物園で何があったか、聞きたいですか」
あたしの背後に立ったまま、ランシーンさんは言った。
「土のサーガを、目覚めさせたんですよ…こんな風にね」
身をかがめながら、ゆるゆると羽を伸ばし、自分の体を包み込むように前方で翼を合わせる。左と右から黒い羽のブラインドがばさりと降りてきて、あたしの周りをすっぽり囲んで遮った。
「ちょ…逆に暗い」
「何も知らないお前は――何もしなかった。振り返れば届くところにいながら。お前はただの人間で、お前にできることなど、最初から何もなかったのだ。…」
「……………」
黒い羽が顔を撫でる。
あたしには何もできない。言われなくても分かってる。
わざわざこうして、あたしには何もできないと念を押す、そのことが――ランシーンさんがまだ、どこかであたしを怖がっているのだと思わせる。

「見えない。…何も」
ランシーンさんが閉じた羽を開いて、また明るくなる。
「なぜ…、…――」
あたしはランシーンさんの足元からふらふらと転げ出た。洞窟の反対側の壁にぶつかって止まる。
思考が途切れた。




「あれっ。ええと」
気が付いたらそのまま、何もしてなかった。
何してたんだっけ。
「ええと。そうだ。電話」
「直りました」
声がして、目を上げると、ランシーンさんがコードにつないだ電話機を定位置に置き直しているところだった。

あたしは頭を抱えた。
「何か変だな」
また目を上げると、ランシーンさんは換気口横のいつもの場所に戻っている。
「……。私はサーガという存在を軽く見すぎていたようです…」
ランシーンさんはのろのろと言った。
最初からずっとそうしていたみたいに、入って来たときと同じ体勢でうずくまっている。
「ただの子供だ…そう思っていた。彼らの存在は、この筋書きに影響を及ぼすのか…」
あたしは、重みで落ちてきそうになる頭を両手で支えて、その場から動けないでいた。
ばさっ。
ばさっ。
音を立てて巨大な換気扇が回る。
差し込む光を遮って、規則正しく影が横切る。
ばさっ。
ばさっ。
エンドレスに回る。
永遠に続くようにも思えてくるリズム。
途切れ途切れに、溶け合うように、陰気な声が辺りに響く。
「…あんなものに左右されるなど。私には必要ない――羨ましくもなんともない…、」

ははあ。羨ましいんですね。

ランシーンさんはたまに、こういう変なところで、何を考えてるか丸出しになって分かりやすいのだった。
意外でもある。
シロンさんのこと…シロンさんを取り巻くものや、その価値観を、気に入らないのかと思ってた。
ブルックリンに吹く風、風のサーガの、シュウに吹く風。
本当はランシーンさんも欲しいのだろうか。
欲しいからこそ、自分の持っていないものを手に入れているシロンさんを目の敵にするのだろうか。

考えてたら、ランシーンさんの頭がちょっと下がって、呟いた。
「…なぜ私にはサーガがいないのだろう」
「ふっ!…」
まんますぎて、笑ってしまった。
ランシーンさんが一気に怖い顔になった。
「だって、サーガはいるでしょ。ランシーンさん、知らないの?…」
ランシーンさんだってウインドラゴンなんだから、サーガは当然シュウだろう。
風のサーガのシュウ。
いつもシロンさんと一緒にいる…ランシーンさんのことを認識しているかさえ怪しい、シュウ。
そりゃ羨ましくもなるよなって気がして、あたしは言葉の途中で口をつぐんで、名前を出すのは止めにした。
「……、羨ましいからって、何でもやっていいわけじゃないよ、ランシーンさん」
声を落としてあたしは言った。

ランシーンさんはいかにも気に食わなそうにぎりぎりあたしを睨みつけた後、ふいっと顔を背けた。
「…知らない」
唸るような声が言った。
「もしかしたら、お前がそうなのかと…。思ったこともあった。――」
あたしはびっくりしてまばたきした。
「まさか。どうして??」
「……、見えないから」
つっかえながらランシーンさんが答える。
「違ったとも。…」
「そりゃあ、違うでしょうよ。…」

あたしは岩の壁に寄りかかって息を吐いた。
あたしは――こうして顔を合わせるまでは、自分がもっとランシーンさんに腹を立ててるんじゃないかと思ってた。
ランシーンさんが、そう企んで起こしたことだ。全部ランシーンさんが悪い。
ランシーンさんがしたことを考えたら、誰だって、当然。

だけど、他に人がいないここは、何もしないと、すごく静かだ。
ばさっ。
ばさっ。
巨大な換気扇だけが重たげに回り続けている。

ランシーンさんは、あまりいいところのない人だと思う。
悪の組織のボスであることを別にしても。
ワガママで面倒くさがりで、陰気に喋って聞き取りづらいし、パワハラする上すぐ物を壊す。

ばさっ。
ばさっ。
光を遮る、影が横切る。
巨大な羽が回る音。
時折金具がきしむ音。

全然いい人じゃないのに、どうしてあたしは今、ランシーンさんに怒ってないんだろう。
マックが大変だったって、あたしはシロンさんから聞いたのに。
メグだって泣いてたのに。
元凶であるランシーンさんを前にして、責める言葉が出てこない。
もしかしたらあたしは、本当は自分が思うより悪いやつで、メグちゃんやズオウくんが苦しんでるのを本当に心の底から心配してるわけじゃなくて、本当は――
本当は。
あたしは目をつぶって、自分が感じたことだけを口に出した。
「ランシーンさんはさー…何だかたまに、人間みたい」
怯える裏返しに誰かを攻撃したり、自分が持ってないものを羨んだり、ひねくれたりする。
あんまり良くないこと。
シロンさんなら、絶対やらなそうなこと。
「!?」
ランシーンさんがぎくりと身じろぎした気配がした。

ディーノくんが言ってた。『君は一体どういう立場の人なんだよ』。
違う立場だ。あたしはサーガじゃない。
サーガじゃないから、つい考える。もしもレジェンズウォーが起きてしまったら、あたしはその悲惨な絵の、背景の側にいるんだろう。いつかコンラッド博士の家で見た挿絵のように、積み重ねられ、黒く塗りつぶされ、省みられることなく。

自分のスタート地点がDWCだった意味が、少し、分かる気がする。
「ランシーンさんに見てもらいたいものがあるんです」
あたしは言った。
「もうずっと家に置きっ放しだった。返し方が分からなくて。…そのことを今日、思い出したところでした」
持ってる人がどんなに悩んで、不安でも――持ってる人が気付くことさえない場所で、持たざる者は更に失うのだ。


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