第13章−5


もともと頻度に波があった社長室への呼び出しは、それきり、ぱたりと途絶えた。
奇妙に静かな日が続く。

「お久しぶりでーす。携帯扇風機部の、でーす」
「入りたまえ!」
何日ぶりかに挨拶してから部屋に入ると、社長がデスクに一人、ぽつねんと座っていた。
それほど驚かない。
ランシーン様の普段いる、あの…何て言うんだろうね?いかにも陰気な洞窟への出入りが一旦解禁されてからというものの、社長室からそのままあっちに出向けって言われることがずるずる多くなって、命令される方もそれなりに慣れてきた。

社長の方を見ながら片手を上げ、上階をつんつん指差して確認する。今日、上ですか?
社長が首を振った。
「?」
首をかしげて扇風機から手を離し、社長のデスクの前までぽふぽふ歩く。
「実は、ここ数日」
社長は、思いつめたように、暗く沈んだ声を発した。
「ランシーンさまから連絡がない…」

「えっ。じゃあ、あたしはどうして呼ばれたんですか?扇風機も持ってきましたけど」
社長は、返事をする代わりに上目遣いでねっとりあたしを見上げて、溜息をついた。
「きっと…怒っていらっしゃるのだ…」
「分かりませんが、きっとそうなんでしょうね」
あたしは適当に返事した。そもそもあの人はいつも怒ってるし。
社長が歯ぎしりした。
「…君、また何かしたんじゃないのかね?正直に言ってごらんっ!?ほんっとーに心当たりはないのかね??」
「またって何です!?ひどいな!?」

抗議してから、自分がここに呼ばれなかった日数を数えてみた。
「…お出かけ以来ですかね。疲れたんじゃないですか?外出、滅多にしないらしいから」
「あ〜。そうだよね〜。あれほど重度のひきこもりとなると、家から一歩外に出るだけでも相当の疲労が…ってちがーう!!」
ばーん。
机を叩いて社長が立ち上がる。
「君、ランシーンさまに何て失礼なことを言うのかねっ!?」
「あたし、そこまで言ってないですよ!?」
「………」
「………」
ややあって後、社長はしずしずと椅子に座り直して両手を組んだ。
「…忘れてくれたまえ」
「…了解です」

肩をすくめてあたしは聞いた。
「それで、扇風機はどうします。あたし、上まで届けてきましょうか?」
「そうだな。そうしてもらおうと思って呼んだのだがね」
社長の声は憂鬱そうだ。
「君の顔を見ていたら、私は不安になってきた。もしかしたら、頼んでないのに届けると、逆に怒られるかもしれない…」
「知らないよ、そんなこと。あたしにはランシーンさんばっかり怖がってる暇はないんですよ」

そのまま上階へ向かおうとすると、社長は手をあげてあたしを押しとどめた。
「待て。さ。先に連絡を…」
「はい?」
「こ、こちらから、一度お電話してみてだね。最近のご様子を伺ってみてから…」
「なるほどー」

多分にあたしの来る前から、それで迷っていたようだ。
社長のデスクの上には、「ランシーンさま専用」とラベルの貼られた内線電話が、他の物を押しのけるようにどーんと置かれていた。
「…ここを押すと、ランシーンさまのお部屋に繋がるのだ」
社長がぶるぶるしながら短い指を持ち上げる。
「ここだ。この、右側の」
その手が通話のボタンに伸びかけて、はたと空中で静止する。
はっはっはっはっ。
社長の荒い呼吸音。何度も喉を鳴らして唾を飲みこんでは、唇を舐めている。
丸っちい顔にはつぶつぶと汗が浮かび、たらりたらりと頬を伝わって落ちていく。
「…………、……」
あたしはというと、立ち去ることもできずに、いたたまれない思いで一部始終をつくづくと眺めている。

「はー…はー…はー…くん」
ぐったり椅子に身を沈めた社長が、弱々しい声であたしを呼んだ。
「ちょっと…代わりに、君がかけてみてくれたまえ…」
「いいですよ、えい」
即押した。それで、社長の全身が軽く痙攣した。

ランシーンさんがこの場にいるわけでもないのに、あたしまでつられてびびっちゃいそうなんだもん。肝心なのは思い切りです。
「エリーゼのために」のメロディーが流れ出す。
ぶつっとこもった音がして、メロディーが止まった。向こうで受話器をとったらしい。かすかなざーざー言う音で、つながっている気配が伝わる。
あたしは丁寧に挨拶した。
「もしもし。こんにちは。ランシーンさんはいらっしゃいますか?」
「…………」
返事がない。
何だかごそごそ音が聞こえる。

あたしは電話に顔を近付けた。
「??もしもし?ランシーンさん?ちょっと、もしもーーし!」
マイク部分に指で触ると、ぼふぼふした音になって響く。
そのまま軽く叩いてテストしてみた。ぼふぼふぼふぼふ。はかばかしい反応は返ってこない。
さらに大きな声を出そうとしてすうっと息を吸い込んだとき、
「ちょっ!止めて!!」
社長が横髪を振り乱して割り込んできた。
「ちゃんと聞こえてらっしゃるから!そういうの止めて…!!くんのそういうとこ、ほんと…!!」
「びっくりしたな!何するんです、それだったら最初から社長が―――」
あたしの文句は一切聞かない。社長はがばっとあたしを押しのけ、身を乗り出した。
「もしもしランシーンさまですかっ?!大変失礼いたしまして!」

「だけど、返事がないじゃん。聞こえてないかもしれないですよ?」
横から口をはさむ。
「聞こえてるから…!今この話も、全部…!」
社長は体でぐいぐいあたしを押しやり、電話から遠ざけようとする。
「ええ、ええといやあ、御用があったわけではないのですが!ここ最近ご連絡がないもので、何かお気に触ることがあったのかなーなんて思いまして!いや!そういうことでなければよいのですが、もしも――」

がちゃがたぶつっ!!
一言も返事のないまま、前触れのない破壊音と共に通話が切れた。
社長室はしばらくしんとした。

「ほわぁあっ!ランシーン様…!」
社長はばたりと机の上にうつぶせて、のたうった。
「はぁああうー!どうしよう…!やぱりすごく怒ってらっしゃる…」
全身をフルに使って身もだえしてる。苦しそう。
一周回っていっそ恋する乙女のようにも見える。

重苦しい空気に耐えかねて、あたしは口を開いた。
「社長…気にしすぎるの、体に良くないですよ。血圧とかさ…」
落ち着かせようと背中をさすってみた。
「それとももしかして、こういう悶々が好きなんですか…?クセになっちゃってる…みたいな…?」
「そんな訳あるかああーーっ!!」
社長は憤然と跳ね起きてあたしの手を振り払った。
嬉しがってる訳ではなかったようです。そりゃそうだ。異様な雰囲気だったもんであたしも動揺してしまいました。

「大体全部お前たちのせいだ!!」
怒りの矛先がこっちに向いた。
「白いタリスポッドは奪えない!支給したレジェンズには去られ!捕まえた子供たちには逃げられる!挙句に君だ!」
「捕まえた子供たち??」
思わず聞き返す。
頭に血が上りすぎて、社長の顔の血色は赤いのを通り越してどす黒い。
あたしの鼻先に指を突きつけ、詰め寄りながらがくがくと縦に揺れ、
「君は何か?ランシーン様を怒らすために生まれてきた天才か?気にするな!?これが気にせずにいられるか!お前たちのせいで私がどんなに苦しい立場になっているか、ふご、ふごおごごごご!!」
激昂しすぎて言葉の途中で喉を詰まらせ、ばたりと倒れた。
体がわなわな痙攣してる。
「ちょっと大丈夫ですか!?だから体に良くないよって…言ってる側から…!」

タイミングよくドアが開いて、総務さんがさっと顔を出した。
「お薬です」
差し出されたお盆の上には、水の入ったコップと薬の包みが載っている。さすが総務さん。

社長はよろよろしながら薬を飲み下し、肩で息をしている。
何だかなあ。
もう余計なことを言う気もしなくなって、あたしは床に置いた扇風機をまた持ち上げた。
「……帰ります」




夕方。そうやって何事もなく仕事の終わった帰り道。
向こうからやってきた立派な車が、ゆるゆるスピードを落として脇に寄り、あたしの横で止まった。
車の窓が下りる。そこから覗いた白い顔が、固い口調で挨拶した。
「こんにちは」
ウエーブのかかった金髪に、赤い帽子。前髪を真ん中に一房だけ出して垂らしていて、帽子からはみ出してうねった髪のてっぺんが、ハートの形を飾り付けてるみたいに見える。
白くて、細くて、どこか憂鬱そうな顔。
「僕はディーノだ。君とは一度会っているはずだけど、僕のことは覚えてる?」

あたしは足を止め、目を見張った。
「ええ。こんにちは…」
もちろん知ってる、この子はディーノくん。あたしやエドさんが捨て身で火のサーガを演じた作戦のときの、本物の火のサーガ。
会うのはあの時以来だ。

白い顔がすっと引っ込んで、ディーノは体をずらして車の奥に移動した。運転手さんが歩道に下りてドアを開ける。
「話があるんだ。乗ってくれ」
「ええ、ええっ?何で!!?」
ディーノ少年は、開け放した車のドアと、ぽかんとして突っ立っているあたしを眺めた。
線を引いたような眉がひそめられた。
「早く」
命令するのに慣れた声。あたしを催促する語調に苛立ちが滲む。

それで、事情が全然分からないけど、とりあえず乗った。
丁寧にドアが閉められ、エンジンがかかって、立派な車は滑るように走り出す。

ディーノは薄い唇を引き結んで、しばらく一言も喋らなかった。
招き入れられた車内だが、歓迎されている空気ではない。
一応会ったことがあるってだけで、ほとんど初対面だし。ディーノくんって、シュウたちみたいにガンガン距離をつめてくるタイプじゃなさそうだし。だけど、それにしたって、あまりにも。
ディーノくんの表情、身振りの一挙一動から、拒絶のオーラがびしばし出てる。
あたしはもぞもぞ身動きして、何となくディーノの胸ポケットに飾られている薔薇を見た。
その後いかがですかとか、聞いといた方がいいのかしら。

ディーノはあたしから顔を背けるようにして窓の外を眺めている。
唐突に沈黙が破られ、そっけない声が言った。
「マックを植物園に連れて行ったろう」


連れてってないけど。――植物園?


あたしがぽかんとしていると、ディーノは少しだけ顎の角度を変えてこっちを向いた…切れ長の目がひゅっと細くなった。
「とぼけても無駄だよ。君の会社の人たちが関わっていたことは分かってるんだ」


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