前回のレジェンズウォーが終わったときの話です。





「終わったな…」
と、カネルド・ウインドラゴンはつぶやいた。

ジャバウォックは倒され、人間の文明は滅ぼされ、空気を淀ませ大地を汚していた全てが、取り払われた。
浄化と終末のための国が役目を終えて静かに去ると、全てが洗い流された清浄な世界が現れる。

涼しい風が運んできたいくつもの雲が柔らかく垂れ込め、辺りには雨が音もなく降っている。光に満ちた空は明るい。
雲の切れ間から覗く太陽がいくつもの光の帯になって地球を照らし、雨は陽光を浴びて金色に輝きながら音もなく降っている。この雨に潤された大地にはやがて緑が戻るだろう。
ここは螺旋の世界。
苛烈で美しい儀式が永遠に変わらない手順で繰り返され、完璧な調和を保つ地球。

「ああ、終わったな。…終わっちまった」
斜め後ろで、ブレイズドラゴンのグリードーがそう吐き捨てた。
まるで良くない出来事の後に居合わせでもしたかのように表情を歪めている。

「どうかしたのか、ブレイズドラゴンよ」
不思議に思ってカネルドが尋ねると、ブレイズドラゴンの目がギロリと動いてカネルドを睨みつけた。
「うるせえよ、お前に言ってもどうせ分からねえよ。…何だよ、いつにもましてスッキリした顔しやがって」
「…?」
金色の雨に打たれながらカネルドは静かに首をかしげ、それから、静かに曲げた首を元に戻す。
何かあったのだろうか。ブレイズドラゴンの様子が妙だった。
様子は妙だが、カネルドには教えたくないことだと本人が言うのなら、知る必要もないだろう。

カネルドはそれで話を終わりにしようと思ったのに、ブレイズドラゴンの方は、かえって黙っていられなくなったらしい。乱暴な足音を立ててこちらに歩いてきた。
「見ろよ、この世界を!!」
ブレイズドラゴンは吠えるように言って、腕で辺りを払った。激情しているのだろう、動きにあわせて火の粉が舞い散る。

言われるままにカネルドは辺りを眺め渡す。
空気を淀ませ大地を汚していた全てが、取り払われた世界。
全てがなくなり、辺りは無音だ。人の気配は絶え、動くものはなく、金の糸の雨だけが降り注ぎ大地を洗い清めている。

「スッキリしたか?世界をこんな風にしたのがそんなに満足かよ。全部滅びちまったのに。レジェンズ同士が殺し合って、何もかも破壊しつくされて…、全部お前のせいだ!」
カネルドは驚いて聞き返した。
「私のせい…だと?」
「ああそうだ!お前が戦いを始めなかったら、こんなことにはならなかった!何でだよ!どうしてお前はそんなに戦いが好きなんだ、ウインドラゴン!!」
炎の竜の叫びに誘われるように、周囲にわずかに残された木々が音を立てて爆ぜた。雨にくすぶり、煙が上がる。次々に火が付いて燃え広がっていく。
「…………」
ブレイズドラゴンが怒っている。しかも、どうやらその憎悪は自分に向けられているようだ。

しばらく考え込んだ後、
「…別に。というか、お前の言うことは何もかも間違っている」
レジェンズたち全てを導く風であるカネルド・ウインドラゴンは、ごく冷静にブレイズドラゴンの言葉を訂正する。
「これは好き嫌いの問題ではない。レジェンズウォーは我々の使命だ。使命を終えて幸福なのは当然のことだし、滅ぼしたのは世界ではなくて人間の文明だ」

合理的な説明をしたつもりだったが、それを聞いたブレイズドラゴンは余計に苛立った様子で歯ぎしりした。
「何だよ、その言い方はよ。だから俺はお前が嫌いなんだよ。なぜいつも、…なぜいつも、こんな!!」
「私の話が聞こえていないのか?好き嫌いの問題ではないと今、言ったばかりだ」
「うるせえ!テメエさえいなければ、こんなことには!!」
怒声と共にブレイズドラゴンが殴りかかってきた。

「よせ、グリードー!」
凛とした声が割って入る。
巨大な灰色の体躯が、翼を広げて二人の間に舞い降りた。グリフィンだ。
ブレイズドラゴンが不意を突かれた子供のような顔になった。
「ガリオン…」

グリフィンは厳しい表情でブレイズドラゴンを見上げる。
「ウインドラゴンはただ、己の使命を果たしただけだ。お前もそれは分かっているはずだ、グリードー。何をもって彼を責めようというのか」
「ああ、分かってるさ。だがよ、だがよ…!」
「馬鹿なことをしていないで炎を消せ。この木々や草は、次の時代に残すべき大切な世界の一部だ」
「………」
ブレイズドラゴンが頭を垂れた。
炎を吹き上げていた翼がのろのろとたたまれる。充満した熱気が薄れ、周囲で燃えていた火が雨に負けて静かに消えていった。
「次の時代…そうだな。これからはもう、次の時代だ。…だけど、そこにサルバは――」

言いながら、途中でブレイズドラゴンは言葉に詰まった。震える目元に雨が流れる。
グリフィンが痛ましげな表情になった。
「グリードー。やはりお前は、サーガのことで…」
「いや、いいんだ。何でもない…」
取り乱した自分を見られたくないのか、ブレイズドラゴンは顔を背け、よろめくように後ずさった。そのままカネルドたちに背中を向ける。
「…お前らとここにいてもしょうがねえな、ダチに挨拶してくるわ。またな、ガリオン。絡んじまって悪かったな、ウインドラゴン」
ブレイズドラゴンはうなだれながら数歩歩いた後、勢いの消えた翼を広げて飛び去っていった。

カネルド・ウインドラゴンはちょっと鼻先を持ち上げて、ブレイズドラゴンの背中を見送った。
その鼻先をそのままぐるりとグリフィンのほうに向けると、聞いた。
「……一体何なのだ、あれは?」

いつでも公明正大、無色透明な風であるカネルド・ウインドラゴンは、レジェンズ同士の小さな諍いにいちいち憤るような感情は持ち合わせていない。だが、いつもと違うブレイズドラゴンの様子には解せないものを感じる。当惑していた。
「ブレイズドラゴンは一体どうしてしまったのだ。レジェンズウォーは無事に終わったというのに、随分おかしなことを言っていた」
グリフィンが低い声で答えた。
「…サーガが死んだのだそうだ。この戦いに巻き込まれて」

「サーガが、死んだ?」
カネルドは金の瞳をわずかに見開く。驚いた。
もう一度空を見上げ、ブレイズドラゴンの様子を観察する。立ち去る彼は、その爪先にぼろぼろに焦げた何かの切れ端のようなものを固く握り締めている。つまりはあれが、彼のサーガの遺品ということだろうか。
「それで、さっき私に話しかけたときは意識の統一が乱れていたのだな。驚いた…さすがは、ブレイズドラゴンだ。サーガが死ぬということは我々が世界に具現する拠り所を失うに等しいのに、その程度の劣化で戦いを耐え抜くとは」
と、カネルドは感心の言葉を述べる。

グリフィンはしばらく黙った後、ぽつりと言った。
「…そういう種類の問題では、ないと思う。グリードーは、サーガを失ったことが悲しいのだよ」
カネルドはまたしても驚く。
「悲しい?だが、死んだのは人間なのだろう?」
「そうだ、人間だ。だが、グリードーにとっては世界でたった一人の、彼のサーガだった。…」
「…………」
返事の言葉が思いつかず、カネルドはしばらく無言でグリフィンを眺める。
それが彼らなりの主張なのだろうと考え、検討してみるが、ブレイズドラゴンの言うこともグリフィンの言うことも、カネルドには全く理解することができない。当惑だけが広がっていく。

なおもしばらく考えた後、
「お前たちの言っていることは私にはまるで理解できない」
と、カネルドは正直な感想を述べた。

「そもそも『たった一人』と表現することが明らかに間違っている」
あくまでも生真面目に論理的に、いつでも公正な風であるカネルド・ウインドラゴンはグリフィンの言葉を訂正する。
「以前のどんなレジェンズウォーにも彼のサーガは存在していたし、次に行われるときにはまた違う別の人間が彼のサーガとして必ず存在する。今回死んだというその人間が、ブレイズドラゴンにとって『たった一人』の存在であるというのは、論理的に考えて全くありえないことだ」
「そうだな…その通りだ。お前が正しい」
グリフィンはカネルドから視線を逸らすと、苛立ったように足の爪で地面を掻いた。
「いつでもお前は正しいよ、ウインドラゴン。さすがはレジェンズウォーを導く者だ。お前に説明して分かってもらえるとは最初から思っていない」

「本当に、何もなくなってしまったのだな…」
グリフィンは顔を上げ、翠の瞳で遥かな大地を眺める。祝福のような雨に打たれながらもその横顔にはなぜか憂いの影が濃い。
「戦いには犠牲がつきものだ、それはグリードーのサーガだけでなく。…分かっていても、失われるのは悲しいことだ」
「失われたのはジャバウォックと共にあったもの、邪悪なものだ。全く問題ない」
カネルドが言うと、グリフィンは溜息をつく。カネルドの方を見ないまま、静かに言った。
「…それでもやはり、失われるのは悲しいことなのだよ。お前以外の者にとっては」

「愚かなことを言うものだ。この戦いに倦んだのか」
「まさか。…ただ私は、――時々…、疑問に思わなくはない」
グリフィンはもう一度溜息をついた。一気に数千年、年老いたように見えた。
「大きな犠牲を払っていっときこの世界を浄化しても、我々が次にまた目覚めるとき、レジェンズウォーは再び始まる。我々は再び今回と全く同じ理由で戦い、血を流すだろう。今回と同じくらい沢山のものが、その時再び失われるだろう。我々はなぜこのような存在に生まれ、この不毛を繰り返し、いつまでこれが続くのか――」

相変わらず主張を理解できないまま、カネルド・ウインドラゴンはグリフィンの言葉を聞く。
どこまでも広がっていく当惑をもてあまし、不快に感じて、体の奥がざわついた。
他人のことは言えないな、と思う。自分も意識の統一が少し乱れてしまっているようだ。
体を震わせてカネルドはつぶやく。
「…嫌な音だ」
「音?…何も聞こえないが」
「もののたとえだ。たまに感じる。今のようなとき」

ウインドラゴンは、螺旋に沿って渦を巻く風。文明の黄昏時に現れ、幕を引く。
過去から未来へ、レジェンズウォーからレジェンズウォーへ、定点が訪れるたびに世界の意志は目覚め、文明を滅ぼし、地球を浄化する。

いつでも同じように風は流れていく。
いつでも同じように風切羽は風に揺れ、カネルドは居ながらにして過去と未来の全てを知る。
それは螺旋の世界。
苛烈で美しい儀式が永遠に変わらない手順で繰り返され、完璧な調和を保つ地球。

――なのに時々、本当にごくたまに、カネルドの元に届く風には不協和音が混じるのだ。
とてもかすかな。
美しい音律を乱そうとする、理解しがたい、歪な何か。

ブレイズドラゴンが人間の死をまるで人間のような振る舞いを見せて悲しむとき。
グリフィンが戦いの無常を嘆くとき。

時には遠く、時には近く、繰り返されるその残響は深く静かに蓄積する。
完璧な世界と完璧に一体となり永遠に無色透明な風であろうとするカネルドの意識を乱す。

筋書きにはない。
理解しがたい。

あるはずもない―――

「――…戦いの前、おかしなものを見た」
ふと思い出してカネルドは呟いた。
「光の勢力なのだと名乗っていたが、あれもレジェンズなのだろうか。見たこともない者たちが、おかしな場所に集まっていて…大きな本に螺旋の話を書いていた。螺旋の先には我々の知らない、戦いのない世界が存在しているそうだ」
「…は?」
グリフィンが、らしくもなくぽかんと口を開けて聞き返す。
「戦いのない世界、だと?それはつまり、レジェンズウォーが起こらない世界ということか?」
グリフィンが呆れているのが分かったが、説明するのを止められなかった。
「そうだ。…もちろん、私ではなく彼らがそう言っていただけだ。望めばそこへ行けるはずだと、誘われた」
確かに彼らの姿を見た、声も聞いた。ここともレジェンズキングダムとも違う、不思議な場所で。
あれは何だったのだろう。

「とんだ白昼夢だな、ウインドラゴンともあろう者が」
グリフィンが鼻で笑った。
「その話を聞いて、グリードーよりもそなたのことが心配になったぞ。余程この戦いで疲弊したと見える」
「………………」
我ながらおかしなことを言っているとは思ったので、カネルドは気まずくなって押し黙る。
理解しがたい、調和を乱す何かが、気が付けば自分の中にまで生まれている。

雨が止んだ。

「…時間だな、そろそろ」
と、グリフィンが言った。その全身が淡く輝きはじめている。
灰色の肉体が少しづつ透けて薄くなっていき、溶けるように大地に吸い込まれてゆく。
「まあ…戦いに疲れたのならゆっくり休養することだ、ウインドラゴン。しばしの別れだ。土は土に…」

ゆっくりと形を失っていくグリフィンを眺めながら、今までとは少し違う風を感じてカネルドは空へと顔を向ける。
「ああ、そうすることにしよう。風は、風に…」
終わりの風が翼を揺らす。
自分を世界とを隔て、形作っていた殻が失われ、肉体も意識も風に流れて溶け出していく。

浄化のときはつつがなく終了した。世界は元通りになり、やがて再び螺旋の上を進み始めるだろう。
レジェンズたちが地球に還るときが近づいている。

「眠りにつく前に聞いておきたい」
大地に溶けてゆきながら、グリフィンがからかうように低く笑った。
「そのおかしな者たちにそなたは一体、何と返事をしたのだ。新しい世界とやらを、お前は望んだのか?」

「さあ…どうだったか…」
カネルドは目を伏せる。全ての知覚が薄れていこうとしている。
「気付いたときにはもう、彼らの姿は消えていた――私は元の場所にいて、レジェンズウォーが始まっていて――」
思考がほどけて風に溶けていく。
「――…戦いは結局起こったのだから、私は誘いを断ったのだろうな、きっと。私はウインドラゴン、レジェンズウォーの先触れであり、闇を打ち払う嚆矢であり、今までもこれからも何も変わらない存在だ――お前やブレイズドラゴンが何も変わらないように。おかしなことを望むあの彼らとて、同じ螺旋の上にいる…」

「そうだな…それでこそ、ウインドラゴンというものだ…」
ほとんど見えなくなりながら、ガリオンはまた笑ったようだった。
「わたしにも分かっているよ。グリードーのサーガは死んでもまた新しく現れるし、運命は永遠に変わらない。何も変わらずにお前は再び戦いの始まりを告げるだろう…今回そうであったように、次に目覚めるときもきっと――」
「ああ。次に目覚めるときも、私はきっと、……」

体の奥底で、あの不協和音がざわめいている。

なぜだろう、揺らいでいる。
地球は美しく浄化され、全てが再び輪廻する。世界は完全にあるべき姿で機能している、それなのに。

まるで「余白」が存在しているかのようだ、と、カネルドは考える。
サーガの死を悲しむグリードーの中に。それを見守り理解するガリオンの中に。ひょっとしたら、自分の中にも。

レジェンズたちが存在の核として共有する「世界の意志」を持たずに生まれてくるのが人間という生物だ。存在の中心が空白ゆえに、人間は一人一人が異なった存在であり、変動しやすく、だからこそ己の欲に振り回されて地球を汚す。
人間だけが持つ、不幸で空虚なその部分。
持つべき使命を持たずに生まれたための余白に過ぎないもの。

「これではまるで」
透けてゆく手で、カネルドは自分の胸に手を当てる。
全てを知っている自分、すみずみまで満たされていて、何もかも完璧で、それなのに。
「これではまるで、『心』のようだ…」

その言葉を口にしたとき、かざした手の下、胸の奥深くでひときわ異様な音が聞こえた。
自分の中に深い亀裂が入った気がした。

グリフィンが不思議そうにカネルドを見やった。
「今、何と…?」
「いや…何でもない…」

カネルドは首を振り、目を閉じる。
亀裂が入った。風にほどけて消滅するにつれその部分は傷口のように広がり、自分が薄れながら二つに別たれ、引き裂かれようとしているのを感じる。
余白を持たない満たされた自分が溶けていく。
そうでない部分も溶けていく。こんな自分が存在するとは今まで知らなかった、空白の、真っ白い何か。

「――…次の黄昏にまた会おう」
そう言ってグリフィンの姿は消えた。
「ああ、また会おう…」

すっかり消滅する最後の瞬間、カネルド・ウインドラゴンは少しだけ不安になった。
次の黄昏にも、自分は変わらぬひとつのウインドラゴンであることができるだろうか。それとも。


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