補足の2





闇の中から私を呼び覚ましたのは、ユル・ヘップバーンという名の人間だった。子供の頃からレジェンズに憧れ続けて考古学の研究者となり、ついには私のリボーンにまで成功した男。
ユルは私との出会いをとても喜び、レジェンズについて色んな事を聞いてきた。夜は大体何時に寝るのか。好きな色は何か。お風呂に入るときはどっちの足からで、お湯はぬるめと熱めのどっちが好きか。
夜更かしが好きで毎晩丑三つ時まで起きてる。好きな色は黒。ぬるめのお風呂に左足から入ります――だが、私は人間にレジェンズのことを教えるために存在するわけではない。

サーガではないが、レジェンズの存在を理解している貴重な協力者だ。ユルにはいずれ働いてもらおう。その方法を考えながら私がユルの家に居候していたある日、事件が起きた。


いつでも部屋を薄暗くしていたから分からなかったが、多分、昼時だったのだろう。その時ユルはどこかに出かけていて、ユルの書斎にいるのは私一人だった。
部屋の外から、ユルにしては高く軽やかな声がした。
「あなたー、お昼ご飯よー。どちらにいらっしゃるの?」
鼻歌と共に足音が近づいてきて、ドアが開いた。薄暗い部屋に廊下の光が差し込んでくる。
「んぬぅううう?」
私は地を這うような唸り声を上げながら何となくそちらを振り向いた。
部屋に入ってきたのはユルではなく、見たことのない金髪の女だった。ちょうど目が合った。
「……………」
「……………」
暗がりの中にうずくまる知らない生物を見つけて、女は目を見開いた。顔からみるみる血の気が引いていく。

彼女がサンドイッチを載せた皿を持っていることに気が付いて、私は数日前のユルとの会話を思い出した。
「…カニ…、」
私の呟きが終わるより早く、彼女の手からその皿が滑り落ちて粉々に割れた。
差し入れのサンドイッチが潰れて床に散らばる。
「キャアアアアアアアア!!!」
彼女は恐怖の悲鳴を上げ、その場で卒倒した。


倒れた女を見下ろして、私は呟く。
「…カニサンド…」
数日前のユルとの会話を私は思い出していた。

私がその食べ物の味を気に入った様子を見て、嬉しいなあ、とユルは笑った。その頃のユルは私と話すとき本当に幸福そうに笑う人間だった。
――気に入ったかい、ランシーン?妻の得意料理でね、私の大好物なんだ。
嬉しいなあ、私の好きなものを君も気に入ってくれて。
妻に頼んでまた作ってもらうよ。今度は君の分も。

妻にはまだ君のことを詳しく知らせていないのだけれど…できたらこれから、妻とも仲良くしていって欲しいな。
きっと大丈夫さ。カニサンドを食べているとき、人は泣いたり怒ったりはしないものなんだよ、ランシーン。――

そう言ってユルは笑っていたのだった。カニサンド。
潰れて駄目になってしまった。
つまり、この女がユルの妻か。ユルの最後の格言はどうやら外れていたようだ。
目が合っただけなのに気絶するほど怖いって、どういうこと。ちょっと傷ついた。


ぱき、と、足元でガラスの砕けるような音がした。
皿を踏んだか。違うようだ。
私は一歩体を引いて、自分の足元に目を凝らした。

床が濡れていた。
暗紫色の水晶が薄く辺りの床を覆い、じわじわと広がっているために、そう見えたのだった。

「これは、…まさか」
床に倒れた女を苗床に、黒水晶は増殖していく。みるみるうちに彼女の体全体を飲み込んだ。
「ジャバウォックが発現している…?」
全く予想していなかった。なぜ今、ここに。
っていうか、私との出会いがそこまで根源的な恐怖だったって、どういうこと。すっごい傷ついた。

大小無数の六角柱が女の体を分厚く覆い、その苗床で限界まで成長しきった後、黒水晶はきしんだ音と共に増殖を止めた。
私は無言でそれを見定める。
…まだレジェンズとして生まれる段階には至っていない。
早すぎるのだ。私もそうだった。

「何かあったのかい、ランシーン?」
予測しなかった事態に私が凍り付いている間に、物音を聞きつけたユルが部屋に駆け込んできた。
隠せるはずもない。
黒水晶の苗床になった自分の妻を見つけて、ユルは悲鳴を上げた。
「これは…ラド!?一体何があったんだ、ラド!?」
ユルが水晶を拳で叩いて必死に中の女に取りすがろうとする。ユルの嘆きに応えるように、増殖を止めたと思った黒水晶が、みしりと音を立ててまた一回り大きくなった。
「説明してくれ、ランシーン!!何があったんだ!私の妻が!!」

そんなに驚かないで欲しい、あと、私に聞かないで欲しい。私だって驚いてます。
こんなところにジャバウォックの種があったとは。
サーガでもないのに私を呼び覚ますほどレジェンズに近かった彼女の夫に引き寄せられたのだろうか、それとも逆で、夫の方が妻の影響を受けていたのか。

…私にとっては、どちらでもいいことだ。
協力者と、ジャバウォックの種。両方手に入った。
この状況は悪くない。いずれ来る戦いの日のために、私は万全の準備を整えることができる。
育てていこう。両方。


「大丈夫ですよ…何も、問題ありません」
私は動揺するユルを落ち着かせ、囁いた。いずれは彼に考古学者としてではなく、人間社会に私の活動基盤を作り上げるために動いてもらおうと思っていたのだ。
「あなたの妻は生きています、大丈夫。これから二人で準備を始めて…、事を始めるにはそれなりの資金が必要だ…。少し時間はかかるだろうが、私の言う通りにしていれば必ず彼女を救うことができる」

ユルに教える。
ラドを救う方法は、このまま私に協力することだ。

今まで以上に。
全てを捨てて。
生涯をかけた仕事として。

ユルの瞳が揺れていた。
「本当なのか…本当なのか、ランシーン?本当にお前は、ラドを助けることができるんだな!?」
「ええ…」
私は頷く。本当だ。
ユルの助けで万全の準備を整え、レジェンズウォーを起こしてジャバウォックを倒す。
私の願いが成就する暁には、核として取り込まれた彼女は闇もろともに美しく浄化され消えてゆくことができるだろう。彼女の夫も汚れた文明も、皆ともに。


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